本居宣長が受けた学恩(『月刊日本』平成25年11月号)

松坂の一夜

 直毘霊①ちょうど二百五十年前の宝暦十三(一七六三)年五月二十五日、本居宣長は伊勢松坂にある、行きつけの古本屋に行きました。

 主人は、「どうも残念なことでした。あなたががよく会いたいとお話しになる江戸の賀茂真淵先生が先ほどお見えになりました」

 宣長が驚いて「先生がどうしてこちらへ」と問うと、

 「何でも山城大和方面のご旅行がすんで、これから参宮をなさるのだそうです。日野町にある新上屋にお泊りになって、さっきお出かけの途中、『何か珍しい本はないか』とお立ち寄りくださいました」

 「それは惜しいことをした。なんとかしてお目にかかりたいものだが」

 「後を追って、おいでになったら、たいてい追いつけましょう」

 真淵の様子を聞いた宣長は、大急ぎで後を追いました。松坂の町はずれまで行きましたが、それらしい人は見えません。次の宿の先まで行ってみましたが、追いつけませんでした。宣長は力を落として、戻ってきました。そして、新上屋の主人に、万一戻って来られたらすぐに知らせてもらいたいと頼んでおきました。

 それから数日後、宣長の望みは叶い、宣長は真淵を新上屋の一室に訪れることができました。二人は、ほの暗い行燈のもとで対座しました。当時、真淵は六十七歳、宣長は三十四歳。真淵は宣長の学識が尋常ではないことを即座に悟り、非常に頼もしく感じました。

 『古事記』のことに話が及ぶと、宣長は、「私はかねがね『古事記』を研究したいと思っております。それについて何かご注意下さることはございますまいか」と問いました。

 「それは良いところに気がつきました。私も実はわが国の古代精神を知リたいという希望から、『古事記』を研究しようとしたが、どうも古い言葉がよくわからないと十分なことはできない。古い言葉を調べるのに一番良いのは『万葉集』です。そこでまず順序として『万葉集』の研究を始めたところが、いつの間にか年をとってしまって、『古事記』に手を延ばすことができなくなりました。あなたはまだお若いから、しっかリ努力なさったら、きっとこの研究を大成することができましょう。注意しなければならないのは、順序正しく進むということです。これは学問の研究には必要ですから、まず土台を作って、それから一歩一歩高く登り、最後の目的に達するようになさい」

 真淵の言葉に深く感激した宣長は、希望に胸を躍らせながら、岐路につきました。その後、宣長は真淵と直接面会する機会には恵まれなかったものの、絶えず文通し、教えを受け続け、『古事記』の研究を大成することになるのです。

「歌まなび」から「道まなび」へ

 宣長は、享保十五(一七三〇)年、伊勢松坂の商家、小津三右衛門定利の長子として生まれました。宝暦二(一七五二)年、京都に上って儒学を堀景山に学ぶことになります。景山は朱子学派の学者でしたが、荻生徂徠とも交わりを結んでいただけではなく、和歌・国文にも通じていました。景山は、国学興隆の基礎を築いた契沖の著作や蔵書を見る伝手を持っていました。契沖の『百人一首改観抄』出版に協力したのも、景山でした。

 契沖はもともと真言宗の僧でしたが、歌人・歌学者の下河辺長流の影響で古典を研究するようになります。そんな契沖の国学進展において重要な影響を与えたのが、水戸義公だったのです。義公は契沖に『万葉集』の註釈をはじめ『日本書紀』その他の考究を依頼し、貴重な史料を提供したのです。

 契沖は、『万葉集』を中心とする古代の仮名用法に従うべきであるとして、元禄三(一六九〇)年に『万葉代匠記』を完成させます。

 宣長は契沖の『百人一首改観抄』を読み、「さっそくに目が覚め」たと回想しています。宣長が所有していた『百人一首改観抄』には、「契沖ノ説ハ證拠ナキコトヲイハズ、他ノ説ハ多クハ證拠ナシ」との書き入れが残されています。また、『排蘆小船』では、「ココニ、難波ノ契沖師ハ、ハジメテ一大明眼ヲ開キテ、此道ノ陰晦ヲナゲキ、古書ニヨツテ、近世ノ妄説ヲヤブリ、ハジメテ本来ノ面目ヲミツケエタリ」と書いています。宣長の学問の出発点には、契沖から学んだ「古語を明らかにし古語の法則にしたがって実証的に古代の文献を注釈するという方法」があったのです。

 宝暦七(一七五七)年十月、二十八才のとき、宣長は京都遊学を終えて松坂に戻りましたが、真淵の『冠辞考』に出会ったのはその頃だったと推測されます。「冠辞」とは枕詞のこと。記紀・万葉集の枕詞三百二十六語を挙げ、五十音順にならべてその意義、出典、解説をつけたものです。宣長は「かの冠辞考を得てかへすがへすよみあぢはふほどにいよいよ心ざしふかくなりつつ此大人をしたふ心日にそへてせちなりしに」(『玉勝間』)と書いています。

 一方、宣長は宝暦八年に刊行した『安波礼弁』において、「物の哀れ」論を展開していました。同年二月には、松阪の歌会「嶺松院歌会」に入会し、同年夏にはその会員らを対象に『源氏物語』の講釈を始めています。『源氏物語』について、「この物語、物の哀れを知るより外なし」と述べたように、宣長は、揺れ動く人の心を、「物の哀れを知る」と言い、歌や物語は「物の哀れを知る」ことから出てくる物だと説きました。こうして、宣長は『紫文要領』、『石上私淑言』の二著が成った宝暦十三(一七六二)年までに、物の哀れを本質とする文学論を確立したのです。

 宣長が真淵に会った宝暦十三年という年は、まさに「歌まなび」から「道まなび」の仕事に没入していく転換点となりました。この転換について、小林秀雄は、「彼の実際の仕事ぶりのおのずからな円熟であって、哥の美さと道の正しさとの間に、彼にとっては何等本質的な区別はなかった」と評しています。

 真淵に入門した翌年の明和元(一七六四)年、宣長は『古事記伝』を起稿します。ほぼ同時期に書き上げた『歌意考』において、真淵は次のように書いていました。『古事記伝』に示された思想に対する影響が窺われます。

 「遠つ神、吾が天皇の、大御継々、限り無く、千五百代を知ろしをす余りには、言佐敝ぐ唐、日の入る国人の、心詞しも、こき交ぜに來交はりつゝ、物多にのみ成りもて行ければ、此国に直かりつる人の心も、隈出る風の横しまに渡り、云ふ言の葉も、巷の塵の亂れ行きて、数知らず、くさぐさになん成りにたる」

 真淵はこのように古代の素直な心が漢意によって邪に陥ったことを歎き、皇神の道を尊ぶことにより古の心を得ることができると説いていたのです。

三十二年の歳月を費やして完成した『古事記伝』

 『古事記伝』は四十四巻という膨大な量におよび、脱稿まで三十二年の歳月が費やされました。「一之巻」の浄書が終えられたのは、明和八年十月のことでした。その総論に付載されたのが、ここで取り上げる『直毘霊』です。宣長は、次のように書き出します。

 「皇大御国は、掛まくも可畏き神御祖天照大御神の御生坐る大御国にして、万国に勝れたる所由は、先ここにいちじるし。国といふ国に、此大御神の大御徳かがふらぬ国なし」

 このように宣長は、皇大御国は天照大御神の生れませる国であると説き、次に三種の神器、天壌無窮の神勅とともに、皇孫をしてわが国を治しめさせたと述べています。続いて、万世一系の天皇が、天つ神の御心を大御心として、この皇大御国を神ながらの安国と、平けく知ろしめされたと説いて、わが国体の本義を明確にしたのです。

 しかし、わが国が万国で最も尊いお国であるにもかかわらず、現実には悪いことも起こっています。宣長は、それを説明する際、記紀神話で登場する禍津日の神に注目し、「禍津日神の御心のあらびはしも、せむすべなく、いとも悲しきわざにぞありける」と書いています。禍津日神は、伊邪那岐大神が、黄泉の国まで行って亡くなった伊邪那美大神を連れ戻そうとしたが、果たせず、却って黄泉の国の汚れを体中に付けて命からがら逃げ帰り、筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原で、禊ぎ祓いしたときに現れた神です。表題「直毘霊」にとられた「直毘神」とは、禍津日神がもたらす禍を直すために生まれた神であり、宣長は「禍津日神のみしわざ、見つゝ黙止えあらず、神直毘神大直毘神の御霊たばりて、このまがをもて直さむとぞよ」と書いています。

 ところで、いま本居宣長記念館では、「松坂の一夜」二百五十年を記念して、「恩頼図」に関する企画展を行っています。「恩頼図」とは、宣長の養継嗣となった本居大平が、同門の殿村安守のために描いた図で、宣長が学恩を受けた人々と、宣長の学問に連なる人々の名前が記されています。

 「恩頼図」は、根・茎・葉からなる植物を上下転倒させたような図で、根にあたる部分が上部に書かれており、そこに宣長の学問上の恩人が列挙されています。中央に置かれた「御子守ノ神」とは、子授けの神として信仰を集めている吉野水分神社のこと。宣長は父定利が同社に祈誓して授かった子であると、母から事ある毎に聞かされて育ったといいます。

 「御子守ノ神」の右には「父主念仏者ノマメ心」が、左には「母刀自遠キ慮リ」が置かれています。父の記述の右には、「契沖」、「屈景山」(堀景山)、「西山公」(義公)が挙げられ、母の記述の左には「真淵」、「紫式部」、「定家卿」、「頓阿」、「孔子」、「ソライ」(荻生徂徠)、「タサイ」(太宰春台)、「東カイ」(伊藤東涯)、「垂加」(山崎闇斎)が挙げられています。

 宣長の学問を荻生徂徠との関連において見るということは、すでに村岡典嗣から始められ、丸山真男も『日本政治思想史研究』において、この観点から宣長学を扱いました。確かに、方法論や若干の思考において徂徠の影響があったと言えるでしょうが、徂徠について、藤田幽谷や会沢正志斎が「君臣の名、華夷の分を知らず」と批判したように、国体観からすれば徂徠と宣長とは相容れません。

 宣長自身、「ある人の、古学を、儒の古文辞家の言にさそはれていできたる物なりといへるは、ひがこと也、わが古学は、契沖はやくそのはしをひらけり、かの儒の古学といふことの始めなる、伊藤氏など、契沖と大かた同じころといふうちに、契沖はいささか先だち、かれはおくれたり、荻生氏は、又おくれたり、いかでかかれにならへることあらむ」(『玉かつま』)と書いているのです。

垂加神道と宣長

 宣長は儒学者の漢意を厳しく批判しました。しかし、儒学者すべてが漢意に侵されていたわけではありません。本連載で書いてきたように、山鹿素行は『中朝事実』で「日本こそが中国だ」と唱え(本誌平成二十四年八月号)、闇斎は、当時の儒者が中国を尊び日本を卑しむことに抵抗し、わが国の国体の尊厳を力説しました。

 闇斎はあるとき門人たちに向かって、「今もし中国が、孔子を大将とし孟子を副将として数万の騎馬を率いて日本に攻めて来たならば、我々のように孔孟の道を学ぶものはどうすればよいか」と問い、答えに窮する彼らに向かって、「不幸にしてこのような厄災に遭ったならば、我々は身に鎧をつけ、手に武器を執って彼らと一戦し、孔子・孟子を擒にして国恩に報いるより外はない。これこそが孔孟の道である」と言い切りました(本誌一月号)。

 国体観の点からの宣長への影響として注目すべきは、垂加神道なのです。村岡典嗣は、大正十四年に「垂加神道の根本義と本居への関係」と題して次のように書いています。

 「……文献学を離れて神道一途について見ると、本居のその方面の言説や思想や態度には、垂加神道と多少の類似や共通が認められる。まづその神道信仰の要素であった、神代伝説中の神々や神々の行動の記事に対する解釈を見ると、記紀その主としたところは異ったが、例へば造化神を人体神と見る事、二神の国生みをさながらに事実と見る事、天照大神を日神にして同時に皇祖神と見ること等、いづれも相同じい。而して、かくの如きは、概ね神典の記事に対する信仰的態度の自然の結果と考へられるが、而もその態度の源である神道信仰の宗教的情操そのものに於いて、両者頗る相通ずるものがある」

 村岡は以上のように述べ、「恩頼図」に「垂加」と書かれている事実、また宣長の母方村田家の村田全次が浅見絅斎の門人だった事実を指摘した上で、宣長が文献学的立場から垂加派を攻撃しつつ、その神道信仰の態度や情操において、不知不識のうちに垂加派に影響されたと考えることも、決して不可能でないと書いています。ただし、村岡は一方で、本居神道と垂加神道はそれぞれ別個の本質において存在し、それぞれ独立の個性からの発展の結果として、同種の信仰内容に達したとの考えも書き添えています。

 ところで、宣長の思想形成の経路を、小林秀雄は和歌─『源氏物語』─『古事記』と把えました。これに対して、安蘇谷正彦氏は、『源氏物語』から一度は『日本書紀』の「神代巻」を通過して、『古事記』へ向かった事実を、小林が等閑視していると指摘しました。

 京都遊学中、すでに宣長は、景山から『日本書紀』を借りて読み、やがて『古事記』に関心を抱くようになっていきます。宣長は宝暦六(一七五六)年七月、京都で『古事記』を購入しています。

 安蘇谷氏は、京都遊学中に宣長が書いた書簡や『排蘆小船』、『本居宣長随筆』第十一巻「蕣庵随筆」の主張を分析した上で、宣長の中核的思想としての神々信仰や皇国優越論的な神道思想が、二七、八歳には形成されていたと説いています。では、いかにして彼の思想は形成されたのでしょうか。安蘇谷氏は、通俗神道、伊勢神道、垂加神道、徂徠の神道説等が宣長に影響を与えたように思われるが、全体の比率から言えば、伊勢・垂加神道に重きが置かれていると推断しています。

 一方、西田長男は、宣長が京都遊学中に書いたと考えられる書簡の一節「不侫、不肖と雖も幸にして此の神州に生れ、大日孁貴の寵霊に頼り、自然の神道を奉ず」は、度会神道や垂加神道の常談から採り来られたもののように思われると指摘しています。

谷川士清との交流

 宣長に対する垂加派の影響として特に重要なのが、、日本初の五十音順国語辞典『倭訓栞』を作った谷川士清です。

 もともと、闇斎に始まる崎門派、垂加派は古語に着目してきました。皇學館大学教授の松本丘氏は「神代巻を始めとする神書理解には、我が国の古語に対する研究が不可缺であるとの認識は、既に山崎闇斎にも見られる」と指摘し、闇斎の『垂加社語』に「五音図」が掲げられ、次の語が添えられていることに注目しています。

 「下御霊社伝曰、右五十音ハ神代ヨリノ音ニシテ、下道吉備公、片仮名ヲ以テ五字十行ニ並ベ玉ヒテヨリ、日本ノ音声ソナハリヌ。是ヲ以テ倭訓ヲ反スニ、通ハザルハナシ……神書ヲ学ブニハ、先熟スベキ者ナリ」

 松本氏はまた、闇斎門人の松岡恕庵が『神代巻埴鈴草』で、「日本ノ書ハ、スベテ訓デヨマルヽダケハ和ヨミニスル也。カナガ体ニテ文字ガスベ也」と語っていると指摘し、谷秦山の『神代巻塩土伝』や『神代巻藻塩草』に、訓義に関する註釈がかなり多く見えているのも、その流れを承けてのものであろうと書いています。

 古語への関心を強めた垂加派が契沖に引き寄せられたのも自然な流れでした。契沖に入門した、垂加派の海北若沖は、万葉集研究に従事し『万葉集師説』、『万葉集類林』をまとめています。彼が宝永二(一七〇五)年に完成させた『倭訓類林』は、後の国語辞典に発展する業績です。

 若林強斎もまた、「釈慧沖ハ近来ノ者ナレドモ、アレホド仮名ニ熟シタル者ナシ。別シテ万葉ニ熟セル者ナリ。堂上サシモノ衆中ト云ヘドモ、一人モ衡ヲ争フコトアタハズ。何故浮屠ニテアリシヤラント思ハルヽコトナリ」と契沖を評価し、さらに「大和字彙ト云物ヲ編集スル積リ也。コレガ出来レバ重宝ナコトナリ」と語っていました。こうした崎門派の構想を引き継いだのが士清だったのです。彼は、宝永六(一七〇九)年、伊勢安濃郡刑部村(三重県津市)の医師谷川順端の長子として生まれました。二十二歳のとき、松岡仲良に垂加神道を学び、その師の玉木正英に師事、二年後に神道許状を受けています。

 士清は『日本書紀』本文批評に没頭し、寛延元(一七四八)年に『日本書紀通証』三十五巻を完成させました。

 安蘇谷氏は、『日本書紀通証』には、宣長の書簡、『排蘆小船』、「蕣庵随筆」にみられる神道思想と類似したものが窺われると指摘しています。『通証』第一巻付録の「倭語通音」は我が国最初の動詞活用図表であり、国語学史上特筆すべき業績と言えます。松本丘氏は「垂加派も徒らに空理空論を翫んでいたのではなく、国学派に先んずる形で、古語を通した実證的研究への道を拓きつつあり、谷川士清の業績も、国学派よりの影響はあろうが、垂加派内部に芽生えていたものを発展させた面があったことを指摘しておきたい」と書いています。

 士清の偉業に驚喜した宣長は、、明和二(一七六五)年に初めて士清に書簡を出し、以来両者の交流が始まります。士清は、宣長の『古事記伝』の稿本を閲読したり、自著『倭訓栞』稿本を示したりして学問上の交流を続けたのです。宣長は『倭訓栞』に寄せた序文で「谷川士清は国語学界の猿田彦である」と書き、その業績を称えています。

 士清はまた、伊勢国白子の村田橋彦と交流がありました。橋彦は真淵の高弟・村田春海と同族だったため、真淵の著作も多く所持していたのです。橋彦が真淵の『祝詞考』も持っていることを知った宣長は、士清に頼んで橋彦から同書を借りています。

 この『祝詞考』こそ、宣長と士清の古語研究に重要な影響を与えることになるのです。『祝詞考』冒頭には、「事と言は、古へ相通はし書事、万葉に多し。字に泥む事なかれ」とあります。これは、元禄八(一六九五)年に契沖が『和字正濫鈔』において述べた「事有れば必ず言有り、言有れば必ず事有り」と通じます。

 宣長は『古事記伝』で「抑意と事と言とは、みな相称へる物……」と書きましたが、士清は『倭訓栞』大綱に次のように書いていたのです。

 「言と事と相まちて、用を為すをもて、同じくことといひ、其の心のたねの、いつはりなく、言に出で、事にあらはるゝを以て、まこととはいふなり。まことは真言なり、真事なり。よて日本紀には、言語を直にまこととよめり。文字を製する人も、誠、信等の字、多くは言に従へるも思ひ合はすべし」

 むろん、宣長と士清の考え方が完全に一致していたわけではなく、宣長は士清の『日本書紀』に対する見方には批判的でした。例えば、明和九(一七七二)年一月に士清に宛てた書簡で、宣長は『古事記伝』五の巻について意見を求めながら、「書紀はとにかく漢に似たらんとつとめて、実をうしなひ古への意にそむける事おほしといふことを」と書いています。

 次回以降、宣長が「漢文のかざりをまじへたることなどなく、ただ、古へよりの伝説のまゝにて、記しざまいといとめでたく、上代の有さまをしるにこれにしく物なし」と見た古事記と、どう向き合ったかを見ていくことにします。