國體回復を阻む近代化路線(『月刊日本』平成27年10月号)

崎門派・水戸学派を排した明治政府

 弘道館記述義完本連載で扱ってきた志士たちの座右の書は、明治維新の原動力となりました。ところが、明治政府は維新の原動力となった思想に背を向けるようになっていったのです。早くも明治四(一八七一)年には、崎門派や水戸学派が新政府から退けられました。崎門派の中沼了三(葵園)、また藤田東湖や会沢正志斎に学び、『大日本史』完成に大きな役割を果たした水戸学者の栗田寛らです。教育勅語に結実する元田永孚(東野)らの運動は、こうした流れに抗し、維新の原動力となった國體思想の回復運動だったのです。

 明治天皇の侍読だった中沼の後任を求めていた大蔵卿大久保利通から推薦を依頼された安場保和は、東野を推薦したのです。こうして東野は、同年六月四日から進講を開始したのです。

 東野は、当時の大臣が目前の事業を成すことに汲々として、君徳培養の急務を疎かにし、輔導の方が未だ備わっていないことに危機感を抱いていました。そこで彼は、「是正ニ培養失フヘカラサルノ秋、当ニ誘導スルニ君徳英発ノ議論ヲ以テシ活発通達シ易カラシムヘシ、宜シク文字歌者流ノ博雑ヲ用フヘカラスト、故ニ進講スル毎ニ先ツ音読字解ヨリ導キ、然ル後ニ反復談論、務テ聖心ノ感発センコトヲ求ムルノミ」との方針を示し、身を挺して輔導に任じると決意したのです。

 近藤啓吾先生は「明治第一の功臣 元田永孚」において、明治十三(一八八〇)年に東野が作った七言の古詩を紹介されています。

  孚也老頑不量力 孚也 老頑 力を量らず

  自信万機帰一徳 自から信ず 万機の一徳に帰するを

  要見龍徳正中時 見るを要す 龍徳 正中の時

  飛揚六合統八極 六合に飛揚して八極を統べたまはんことを

  然後寄身櫻雲梅月間 然る後に身を桜雲梅月の間に寄せ

  撃壌静楽帝之則 撃壌 静かに楽しまん帝の則を

 近藤先生の訳を引きます。

 「老頑ながら私は非才を量らず、輔翼の大任に身命を致さねばならない。しかしながら天皇もとより聖明の御徳をそなへたまふ。君の一徳によつて万般の艱難もすべて解決せられることを確信する。而して聖徳成就して皇威八極を統べたまはん暁には、臣は桜雲梅月の間に隠退して、静かに陛下の布きたまふ道を楽しむことにしよう」

 ここには、東野の理想がよく示されています。

 東野は明治五年の新年講書始の進講において、「道徳仁義ヲ以テ事業ノ上迄施シ及ホシタル人君ハ、古今堯舜ヨリ外ニハ是ナク……此堯舜ヲ以テ御目的卜遊サルヽヨリ外ニハ、今日帝王ノ道ハ是ナキ義」と述べています。

 東野は、有徳の君主になるためには、天皇が儒学を学ぶことが必要だと信じていました。東野は、明治十一(一八七八)年からの『論語』進講に際して、なぜ「孔孟の学」なのかを詳細に述べています。埼玉大学名誉教授の森川輝紀氏によると、東野は概要次のように述べています。

 浅学者は孔子の学は漢学であり、聖人の道は儒者であって日本の道ではないという。日本の道は「神道」にあるとするが、それは誤りだ。なぜなら、道は等しく「天地人倫の大道」であり、異なる道は存在しないからだ。ただ、天の命ずる理の現れは「処」によって異なるだけである。日本にあっては天照皇から天孫への三種の神器が智仁勇の三徳を示すものとして与えられている。しかし、それはあくまで「理ノ神妙」であって、文字を持たざるが故に講ずるには至らなかったのである。孔子の『論語』は「神道」の「理ノ神妙」なる点を説明した書であり、我が国の道=神道を講述した書となる、と。

 渡邊幾治郎が昭和十一(一九三六)年に著した『明治天皇と輔弼の人々』は、東野について、『論語』ほか経書を進講する場合には常に國體に立脚し、皇道に帰着することを忘れず、常に儒学を以て皇道の説明とし、注解とする日本主義の立場にあった旨を記し、それを明治天皇がよく受け止められたと書いています。こうした東野の姿勢は、前回強調した、藤田東湖の神儒一致の立場を彷彿とさせるものです。

 実学党と学校党と対立

 では、東野はいかにしてこうした思想を培ったのでしょうか。文政元(一八一八)年十月、熊本藩士の子として生まれた東野は、十歳のときから藩校時習館の句読師・村井次郎作に孟子の素読を、同じく習書師・町熊之助に習字を学ぶようになりました。二十歳になると時習館居寮生となり、塾長・横井小楠の教えを受けるようになります。

 東野は、天保六(一八三五)年頃、久留米に真木和泉を訪ね、正志斎の『新論』を借り受けています。やがて、天保十四(一八四三)年頃(異説あり)、小楠、長岡監物、下津休也、萩昌国、そして東野の五人で講学を開始します。実学党の誕生です。東野の『還暦之記』には次のように書かれています。

 「長岡太夫史学ニ志シ、横井子、荻子及余ヲ招キ通鑑綱目ヲ会読ス、大夫曾テ山崎(闇斎=引用者)浅見(絅斎)二先生ヲ信ジテ経学ニ得ル所アリ、道徳忠誠之ヲ天資ニ得テ学ブ所最モ義理ニ在リ、但歴史ニ渉ラザルヲ以テ横井子ヲ延テ史学ヲ講ズルナリ、横井子余等ニ謂テ曰ク、大夫史学ニ乏シキヲ以テ吾儕ヲ招テ学友ト為ス、其志優ナリ、吾儕未ダ経学ニ達セズ、何ゾ大夫ニ就テ講ゼザルベケン乎、是ニ於テ大夫ニ請ヒ先ヅ近思録ノ会読ヨリ始ム、是ヲ長岡大夫、下津、横井二先生、荻子余トノ会合ノ始ニシテ実学ノ権輿トス」

 長岡が崎門学を信奉していたことが注目されます。長岡は崎門学派の梅田雲浜とも交流がありました。鎺に「赤心報国」と書かれた絅斎の長刀の所在を探していた長岡は、京都市左京区の葉山観音堂守小屋に住んでいた雲浜に使いを送っています。このことは、旧跡碑の碑文にも刻まれています。

 実学党は肥後藩の先儒大塚退野・平野深渕の流れをくんだ朱子学を継承しようとしていましたが、大塚は崎門正統派の西依成斎が師事した人物でもあります。時習館には、成斎に私淑して崎門学を学んだ宮田壺隠のような人物もいました。宮田は文化七(一八一〇)年に時習館訓導助勤に就いています。

 東野は建言「上書草稿」(慶應四年九月)の中で、実学党が君上を尊び、国家を重んじ古の聖賢を恭い孔孟の道を伝えて君上を堯舜之君と仰ぎ奉り、国家を唐虞の御代と崇め奉ることを目指していると書いています。

 実学党は、林家の朱子学に依っていた時習館主流派(学校党)とは異なる学問を追求し、彼らとの対立を深めていったのです。特に、長岡監物が水戸学派と通じていたことを、学校党は実学党批判の材料としました。弘化元(一八四四)年に烈公が幕府から謹慎を命ぜられると、学校党は「長岡大夫ノ一派水府藩士ト意気相通シ、学風較似タルヲ以テ、若シ此一派ヲシテ志ヲ得セシメハ、吾藩モ亦幕府ノ忌ム所トナリ、其禍ノ及フ所遂ニ君侯ノ罪ニ帰スルニ至ランモ測り難シ」と攻撃してきました。弘化四(一八四七)年には、長岡は失脚に追い込まれ、藩政は、学校党側に立つ筆頭松井章之、筆頭用人松井典礼らが抑えました。ところが、嘉永六(一八五三)年のペリー来航後、幕府から相州警備を命ぜられた肥後藩は、同年十一月に長岡を藩の相州警備の「惣帥」に任命することになったのです。在府中に監物は、さらに水戸学派と親交を深めていきます。特に東湖と親交を深め、東湖の斡旋で烈公に「精忠」「純孝」の揮毫を得るほどになります。

 これに対して、横井小楠は水戸学派に批判的になり開国論へと傾斜、安政二(一八五五)年には小楠と監物は絶交するに至ります。

 東野は、長岡に近い立場をとり、水戸学派への敬意を維持し続けました。むろん、東野の立場が水戸学派と完全に一致していたわけではありません。東野は「最も孝悌和順の徳、純忠至誠の道に由るを主として、決して私に偏る党派の心無ければ、素より水府の学風(水戸学)を效うに非ず。其の、国を興すの志は同じと雖も、国を経うるの道は、見る所亦た異なり」と書いています。

 しかし、東野は安政三年八月の安沢恕憩宛書簡で、「水府ハ……首トシテ尊王攘夷ヲ唱ヘテ節義ヲ錬磨シ、以テ天下ノ士気ヲ興シ、大ニ為ス所アラント欲ス、幕議水論両端ニ分レ天下ニ影響スル所トナリ、忠義気節ノ士ハ皆水論ニ風靡シ」と書いています。同年、東野は『朱文公奏議選上下二巻』をまとめ、長岡と正志斎に贈っています。さらに、安政四年六月二十日付荻昌国宛書翰においては、評判の高い東湖の「回天詩史」を早く読んでみたいと書いています。

 開化路線との対決

 『元田永孚と明治国家』を著した沼田哲は、「おそらくは明治期に至っても元田におけるこの水戸派(水戸学)への親近性は残りつづけ、それがいわゆる国体論的考え方を元田に持たせ続けたことにつながると思う」と書いています。

 さて、東野は明治五(一八七二)年に学制が制定されて以来の教育の在り方に批判を強めていきます。学制に示されている教育観は、社会学者の副田義也氏が指摘している通り、福沢諭吉が『学問のすすめ』で説いた「一身独立」のための教育とほぼ等しく、極めて個人主義的色彩が強いものでした。

 明治七年には、岩倉遣外使節に随行して欧米の教育事情を調査した田中不二麿が文部大輔に就き、知識才芸主義の教育を推進します。彼は、明治九年に再度渡米してアメリカ各州の教育制度を調査しています。

 明治天皇は明治十一年夏から秋にかけて、東山・北陸・東海の諸地方を御巡幸になり、各地の小学校、中学校、師範学校に臨幸され、施設や教育方法、内容に関して詳細に御覧になりました。東野はこの視察について次のように記しています。

 「北越御巡幸諸県学校ノ生徒ヲ御覧セラルゝニ英語ハ能ク覚エタルニ之ヲ日本語ニ反訳セヨト仰セ付ケラレタレハ一切ニ能ハサリシナリ。或ハ農商ノ子弟ニシテ家業モ知ラス高尚ノ生マ意気ノ演述ヲナス等皆本末を愆ルノ生徒少ナカラス。是全ク明治五年以来田中文部大輔カ米国教育法ニ據リテ組織セシ学課ノ結果ヨリ此弊ハ顕ハシタルナリト進講ノ次ニ御喩アラセラレ誠ニ御明鑑ニアラセラレタリ……亦聖賢道徳ノ学ヲ御講究アラセラルゝノ補益ニ因テ然ルヘシト竊ニ存シ奉レバ…」

 明治天皇から対策を求められた東野がただちにまとめたのが、「教学聖旨」です。「教学聖旨」は、教学の基本を述べる「教学大旨」と具体的方法・内容を指示する「小学条目二件」の二つの文書から成っていました。

 「教学大旨」は、「教学ノ要、仁義忠孝ヲ明カニシテ、知識才芸ヲ究メ、以テ人道ヲ尽スハ、我祖訓国典ノ大旨、上下一般ノ教トスル所ナリ、然ルニ輓近専ラ知識才芸ノミヲ尚トヒ、文明開化ノ末ニ馳セ、品行ヲ破リ、風俗ヲ傷フ者少ナカラス」と、学制以来の教育の在り方を厳しく批判したのです。また、「故ニ自今以往、祖宗ノ訓典ニ基ツキ、専ラ仁義忠孝ヲ明カニシ、道徳ノ学ハ孔子ヲ主トシテ」と述べています。

 こうして、伊藤博文との論争の火ぶたが切られたのです。伊藤は、「教学聖旨」に対抗して、ただちに井上毅に「教育議」を執筆させます。

 「教育議」は、「其足ラサル所ヲ修補セハ、文明ノ化猶之ヲ数年ノ後ニ望ムヘシ」とし、「高等生徒ヲ訓導スルハ、宜シク之を科学ニススムヘク」とし、「子弟タル者ヲシテ高等ノ学ニ就カント欲スル者ハ、専ラ実用を期シ…」と主張したのです。

 さらに「教育議」は、古今の教えを折衷し、経典を斟酌し、一つの国教を建立するには、「賢哲其人アルヲ待ツ」べきであり、政府が管制するべきところではないとも主張しました。

 これに対して東野は、「教育議附議」を書き、安易に「読本の倫理風俗に係る者は、其の善良なるを択びて之を用ひしめ」ればよいというが、西洋修身の書の多くは耶蘇教に出ているから、「四書五経を主とし、加ふるに国書の倫理に関する者を用ひ、更に洋書の品行性理に完全なる者を択び取るべし」と反論しました。

 「教育議附議」はまた 「必ス賢哲其人アルヲ待ツト、抑其人アルトハ誰ヲ指シテ云歟、今聖上陛下、君ト為リ師ト為ルノ御天ニシテ、内閣亦其の人アリ、此時ヲ置テ将ニ何ノ時ヲ待タントス、且国教ナル者、亦新タニ建ルニ非ス」と、賢人哲人たる「君ト為リ師ト為ル御天」の明治天皇が存在しているではないかと反論しました。

 東野は伊藤・井上と真っ向から対立しつつ、教学聖旨に沿って『幼学綱要』の編纂に取り組んでいましたが、明治十五年に完成、宮内省から刊行されました。

水戸学と教育勅語

 その四年後の明治十九年十月二十九日、明治天皇は東京帝国大学を視察されました。理科、医科、法科、文科各分科大学教室、実験室、寄宿舎、医院、図書館を御巡覧になられ、さらに理化学の実験及び各科授業も見学されました。この視察の御所見を、東野が承り謹記したのが「聖喩記」です。

 東野は、「理科化科植物科医科法科等ハ益々其進歩ヲ見ル可シト雖モ主本トスル所ノ修身ノ学科ニ於テハ曾テ見ル所ナシ」、「君臣ノ道モ國體ノ重キモ脳髄ニ之無キ人物日本国中ニ充満シテモ之ヲ以テ日本帝国大学ノ教育トハ云へカラサルナリ」と述べ、時の総理大臣伊藤博文や東大総長渡辺洪基らに反省と対応を求めています。

 そして、明治二十三年、ついに東野の長年にわたる努力が報いられるときが来ました。同年二月、地方長官(全国知事)会議で、当時の学校教育を「知育を主として専ら芸術知識のみ進むることを勉め、徳育の一点に於ては全く欠く……軽躁浮薄の風、道義頽壌の勢」にある、と厳しく批判した「徳育涵養の議に付いての建議」が採択され、文部大臣榎本武揚あてに提出されるに至ったのです。

 同年五月、内閣改造により芳川顯正が文部大臣に起用されました。親任式の席上、明治天皇は、芳川に対して「徳教のことに十分力を致せ」「教育上の基礎となるべき〝箴言〟を編め」との御沙汰を下されたのです。山県首相と芳川文相は恐懼しました。直ちに協議し、単なる「箴言」の寄せ集めではなく、進んで「教育に関する勅語」を起草することにしたのです。

 文部省は、勅語の執筆者に帝国大学文科大学教授の中村正直を選びました。山県は中村原案について、内閣法制局長官・井上毅に意見を求めました。ところが、井上は中村原案の宗教色を厳しく批判、結局中村原案は廃棄されました。そこで山県は、中村に代えて井上に原案作成を依頼したのです。一方、東野も勅語の草案を用意していましたが、井上原案をもとにして、両者が協力してまとめることになったのです。

 文部科学省「学制百年史」は「教育勅語は元田永孚の起草になる明治十二年の教学聖旨の思想の流れをくむものであるが、同時に伊藤博文や井上毅などの開明的近代国家観にもささえられ、両者の結合の上に成立したものといえよう」と位置づけていますが、上智大学学長を務めたヨゼフ・ピタウは、以下の三つの立場が交錯していたと指摘しています。

 (一)山県に代表されるもので、国家の統一と発展を、主として軍事力に基づいて実現していこうとする立場

 (二)東野に代表されるもので、まず伝統的な儒教の教えに立ち帰り、その教えの中で倫理と政治を不可分の一体なものとして同一視していこうとする立場

 (三)井上が強調した立場で、山県の意見と元田の立場をいずれも受け入れながらも、日本が発展していくためには、現代的な立憲政治が実現されることが絶対に必要であると主張する立場

 副田義也は、東野の立場への井上の妥協あるいは屈服が、教育勅語を生んだと解釈しています。また、文芸評論家の前田愛は「元田にとって…井上草案は、意に満たぬものであったにちがいない。……二十数次にわたる改稿の過程は、井上案を原案とすることをいったん承諾した元田が徐々に捲きかえしをはかり、井上草案のいたるところに、天皇の帥傅としての意志と権威を、クサビのように打ち込んで行く過程であった」と評しています。

 こうして勅語は、東野の思想をかなり体現したものとして成り、そこには『弘道館記述義』『新論』などに代表される水戸学の思想が流れ込んだのです。注目すべきは、冒頭に述べた栗田寛の存在です。国語学者の山田孝雄は、明治二十三年二月、東野から我が固有の大道について意見を問われた東野が『神聖宝訓広義』を著して東野に呈した事実を指摘し、これが勅語起草の一つの参考になったのではないかと思うと書いています。

 明治天皇、皇后両陛下は明治二十三年十月二十六日から二十九日まで、水戸に行幸啓されました。勅語が発布されたのは、翌三十日です。栗田は『勅語講義』で、これは決して偶然ではないと書いています。

 吉田俊純氏は、勅語に近代的思想が取り入れられていることを認めつつも、勅語の文章からは、『弘道館記』が掲げた「忠孝一致」「文武一致」「学問事業一致」「神儒一致」の四綱目が読み取れると指摘しています。水戸学研究者の菊池謙二郎は、勅語の旨意と『弘道館記』の趣旨は全く同一だと言って差し支えないとまで書いています。

 例えば菊池は、勅語の「是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン」は、『弘道館記』の「豈徒に祖宗の志墜ちざるのみならんや。神皇在天の霊も亦将に降鑒したまはんとす」に対応していると指摘しています。

 何より、勅語冒頭には「朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス」とあります。「億兆心ヲ一ニシテ」は、『新論』で用いられた表現であり、『弘道館記述義』の以下の一節と響き合っています。

 「夫れ日出の郷は、陽気の発する所、地、霊に、人、傑に、食、饒かに、兵、足り、上の人は生を好み民を愛するを以て徳となし、下の人は一意上に奉ずるを以て心となす。その勇武に至つては、すなはち皆これを天性に根ざす。これ國體の尊厳なる所以なり」

 これを支える一節こそが、『弘道館記述義』の核心部分「恭しく惟るに、上古神聖、極を立て統を垂れ、天地位し万物育す。其の六合に照臨し宇内を統御する所以のもの未だ嘗て斯の道に由らずんばあらず。宝祚、之を以て窮りなく、國體、之を以て尊厳、蒼生、之を以て安寧、蛮夷戒狄、之を以て率服せり」だったのです。

 勅語によって、水戸学や崎門学が追求してきた國體思想はなんとか命脈を保ったかに見えます。しかし、その後も近代化路線、開化路線に進む力学は強固でした。そして現在もなお、この力学が働き続けています。その中で、維新の原動力となった國體思想をどう回復していくのか。我々に突きつけられた課題の重さを痛感します。