東湖の神儒一致―固有と普遍の統合(『月刊日本』平成27年9月号)

東湖を動かした光格天皇の御製

弘道館記述義③ (1)天保三(一八三二)年十一月二十四日、徳川斉昭(烈公)は藤田東湖を呼び出し、徳川光圀(義公)が寛文八(一六六八)年に編纂を命じたものの、未完となっていた『神道集成』を改修して、神道を復興させたいと語りました。議論の結果、烈公は東湖自身にそれを任せることにし、小石川邸内に神道局を設置します。こうして同年十二月十六日、東湖は「神道取調」を開始することとなったのです。

東湖の目標は高く、『神道集成』再訂に留まるものではなく、別個に『神道備考』を編纂することにあったようです。東湖が、「神道取調」を持続的に取り組んでいれば、『神道備考』は完成したかもしれませんが、天保六年になると藩政が急を要する事態に陥り、同年六月東湖は御用調役に転じて内外の問題に奔走することとなり、神道研究を続けることができなくなってしまったのです。それでも、その直前までに、『神道備考』の総論が脱稿されていました。そこで東湖は次のように書いています。

「夫れ儒の教へ為る、名数節目、勝げて言ふ可からず。然れども其の大要、人倫を明かにするに在り。所謂る父子・君臣・夫婦・兄弟・朋友なる者、皆な我が固有する所なり。抑々豈に啻に固有を、之れ尓か云ふのみならんや。凡そ天日の照らす所、宇内万国、未だ嘗て神州の尊きに及ぶこと有らざる者なり。則ち各国固有の道、豈に後に斯道の右に出る者有らむや」

この言葉には、東湖が到達した神儒一致の立場が明確に示されています。実は、『神道備考』総論執筆直前の天保五(一八三四)年十二月、東湖は烈公に上書して次のように述べていたのです。

「愚臣取懸居候神道も近々総論は出来候間、其節高覧に入れる可く存じ奉り候へ共、恐れながら、右御製を本に仕り取調候義に御座候」

「右御製」とは、光格天皇の御製です。

敷島の やまと錦に 織りてこそ

からくれなゐの 色もはえあれ

勤皇の志士梁川星巌から詩文を学んだ三輪田真佐子は、この御製を「韓国より渡来した美しき紅色も其の色を以て、我が国の錦に織りあげた後には、一層見栄えがあると云う意味で、外国の文物制度学問なども大和魂を以て、我が国に採用した上、一層立派になると云うことを述べさせられたのである」と解釈しています。

一方、水戸学研究者の菊池謙二郎は、「大和錦に唐紅を織り込むと、紅の色がはつきりと映りばえがするやうに我が国に儒教を取り入れると儒教の意義が一層明確となり、従つて我が国の路も発揮されるやうになる」ととらえ、御製の背景に国学者と漢学者が一方に偏して自己の立場に固執する風潮があったと指摘しています。菊池は、「神州の道を奉じ支那の教を資つて斯の道を推弘振張すべしといふ神儒一致の根本義は神道備考総論に言ふ所と弘道館記に在る所と同一であります」と書いています。

『弘道館記』には、神儒一致の立場が鮮明に示されていますが、本居国学の台頭という流れの中で、東湖は神儒一致の在り方を定める上で苦心を余儀なくされたのです。

東湖が天保八年七月三日に自ら『弘道館記』の草稿を書き上げ、昌平黌の儒官(総長)の佐藤一斎、彰考館総裁を務めた青山拙斎(雲龍)、会沢正志斎の両碩学の添削を仰いだことについてはすでに書きました。

東湖の草稿は、「弘道とは、何ぞや。人、能く道を弘むる也」に続けて、「道とは、何ぞや。神州の固有する所にして、生民の須臾も離る可からざる者也」となっていました。

ところが、最終的には、「道とは何ぞや。天地の大経にして、生民の須臾も離る可からざる者也」(道とは何か。天地の大原理で、人間が一刻も離れることのできないものである=橋川文三訳)と訂正されたのです。

この過程で、佐藤一斉は「固有は宜しからず。神州の所存と改むべし」と、青山拙斎は「固有の字、『孟子』に始まり、人身に固有することの外は用ひぬ。神州の所存と改めても穏かならず。神州の所伝、又は所崇奉なりとの内に改むべきにや」と、そして、会沢正志斎は「道とは、何ぞや。天の叙する所、人の由る所、鴻荒より無窮に及び、凡そ宇内に在る者、須臾も離る可からざる所也、と改めたし」と、それぞれ訂正を求めました。この三者の意見を決裁して烈公は、次のように述べています。

「此の三説を合せ考ふるに、いかにも、固有は宜しからず。頻りに神州のものとするゆゑ、六ケしきなり。……因ては天地の大経と改めては如何あるべきや」

このように、「神州の固有する所」は受け入れられず、烈公の提案した「天地の大経」が採用されることになったのです。

水戸藩における国学派と儒学派の綱引き

烈公自ら、神道再興の志を抱いてはいましたが、本居国学に対しては微妙な立場を採っていたのです。水戸では正志斎を筆頭に国学派に対する厳しい批判が存在しました。「現在も続く直毘霊論争」(本誌平成二十六年一月号)でふれた通り、宣長は『直毘霊』(一七七一年)において、「聖人の道」を、「たゞいたづらに、人をそしる世々の儒者どもの、さへづりぐさとぞなれりける」と酷評し、わが国の道(「神の道」)について、「天地のおのづからなる道にもあらず、人の作れる道にもあらず、此道はしも、可畏きや高御産巣日神の御霊によりて、神祖伊邪那岐大神伊邪那美大神の始めたまひて……天照大御神の受たまひたもちたまひ、伝へ賜ふ道なり。故是以神の道とは申すぞかし」と説いたのです。

これに対して、宣長没後の安政五(一八五八)年、正志斎は『読直毘霊』で次のように反論しました。

「道は天地の道なり。天地あれば、人あり。人あれば、君臣、父子、夫婦、兄弟、朋友あり。君臣の道を義と云、父子の道を親と云。夫婦には別あり、長幼には序あり、朋友には信あること天地自然に備りたる大道なり」

正志斎は、「天地自然」に備わった道は、「四海万国ともに教えとすべき大道」だと信じたのです。

正志斎は、宣長が『直毘霊』で「皇統の正統が万国に勝れている」と説いたのは、極めて卓見であり、正論だと評価しつつも、聖人の道を誹譏して、私見によって別に一個の道を造立したのは惜しむべきことだと批判したのです。また、宣長の『葛花』(一七八〇年)に対する反論『読葛花』でも、「皇神の道と聖人の道とを二つにする」ことは「僻見」であると主張しました。

正志斎はまた、宣長が中国の歴史を振り返り、礼儀や忠孝などを徳目的に教えても、徳にかなった行為は見られなかったと説いたのに対して、次のように反論しました。

「賎き奴も忽に君となること、万国にある事なれども、漢土にも後世のことにて、古は伏義、神農、黄帝、堯舜等、何れも帝王の胤にして、代る代る天下を有てるなれば、一概に賎奴と云は、古今に附き也」

こうした正志斎の立場と一線を画し、本居国学に接近した水戸の学者が吉田令世(活堂)です。彼の父吉田愚谷は東湖の父幽谷と親しく、晩年まで親交があったので、幽谷は長女を令世に嫁がせました。

令世は文政八(一八二五)年に著した『声文私言』で宣長を推奨して、『直毘霊』『馭戒慨言』『鉗狂人』『葛花』等は、いずれも「皇国の道」を道として説き明かしているので、早く読むべき書であると書いています。

実際、令世は国学派の影響を強く受けていました。例えば、天保十(一八三九)年に著した『宇麻志美道』では「皇国の道は神の始め給へる道といふ意、西土なるハ天之道といへる義にて、いさゝかのたかひあり、よくせすハ紛れぬへし」と書いています。

令世は東湖にとって義兄でもあり、その思想的影響をかなり受けたと推測されます。

ここにおいて、弘道館記の「道とは何ぞや。天地の大経にして、生民の須臾も離る可からざる者也」を、東湖がどのように解説したかに、改めて注目しなければなりません。ちなみに、正志斎は、『退食閒話』において、この部分を、「道は天地の大経にして天地あれば自然に、人倫備はり、人倫あれば自然に五典の道備はれり。故に父子あれば親あり、君臣あれば義あり、是皆天下の大道正路にして一言の私言にあらず」と解説しました。これに対して、東湖は次のように解説したのです。

「臣彪謹んで案ずるに、上古は世質に人朴にして、未だ書契(文字=引用者)あらず、所謂道なるものも、また寞然として聞くことなし。然らばすなわち道は、固より、上古に原づかざるか。曰く、なんぞそれ然らん。当時はただその名なかりしのみ。すなわちその実のごときは、未だ始より天神に原づかずんばあらず」

東湖は、道は「天神に原づく」ととらえたのです。『水戸学と明治維新』を著した吉田俊純氏は、この東湖の道のとらえ方を、『古事記』にのみ出てくる別天神を造化三神ととらえる、宣長『古事記伝』の所説にしたがったものであるとします。

しかし、東湖はこの解説の後段で、「天地あれば、すなわち天地の道あり、人あれば、すなわち人の道あり。天神は生民の本にして、天地は万物の始なり。然らばすなわち生民の道は、天地に原づき、天神に本づくや、また明らかなり」と書いているのです。

吉田氏は、この部分について、「ふたたび儒教に傾く」と指摘し、「天地に原づき」をとらえて、「儒教的な口吻をもらす」と評しています。実際、ある国学者は、天地を「万物の原始」と説くのは漢籍に説くところであって、わが国の古典にはないものだとして訂正を求めたのです。これに対して、青山佩弦斎は逆に宣長流の表現の削除を東湖に求めました。

東湖は、国学派、儒学派の激しい綱引きの中で、双方から批判を受けていたのです。

東湖が「神道取調」を開始する直前の天保二(一八三一)年に、国学派の小山田与清(松屋)が水戸藩史館に採用されています。小山田は令世の『声文私言』に序文を寄せ、「万代までもいひもてはやすべき書」と激賞していました。「神道取調」に際して、東湖は小山田の蔵書も閲覧していました。

さらに、平田篤胤が、烈公に「神道取調」に参加させてほしいと願い出ていました。篤胤は天保五(一八三四)年十月から同年十二月までに三回にわたって水戸藩に出入していたとの記録もあります。結局、篤胤の採用は見送られましたが、東湖は篤胤とも議論を交わしたのです。

「天地に原づく」と「天神に原づく」の統合

結局、東湖は国学派の主張の一部を取り入れつつも、国学派の主張を全面的に受け入れようとはしませんでした。

彼は篤胤を評して、「甚僻見怪説も少なからず候へども、篤く古学存入候段は格別之ものに有之」と述べています。また、『弘道館記述義』でも、国学派の古典研究の功績を認めた上で、次のように書いています。

「太古のことを論ずるにあたり、あたかも自分がその時代におり、現実にそのことを目撃しているかのように、譬えを引いたり、類推をしたり、とめどもなく弁論分析を述べたて、例の古典を疑うものたちを説服しようとするものがある。やはりこれは私知をもって神代を推し測るものである。曲がったのを直そうとして、まっすぐにしすぎたといえなくはないであろう」(橋川文三訳)

神代を考える際に慎重な姿勢を貫くべきだという東湖の信念は『神道備考』総論以来のものでした。名越時正が指摘しているように、彼は、『神道備考』総論でも、舎人親王が『日本書紀』を撰した際、本文以外に諸説を掲げた巌密慎重な態度こそ最も公平卒直であるとして、自らその態度を模範としていました。

そして、『古語拾遺』を著した斎部広成の言葉を称賛して、古典に記すところは皆相伝の説なので、これを疑い、附会することは正しくなく、中世における神道家の私智によって神世を測る態度も、近世国学者が自ら神代にいて見聞するような奇怪な説をなす態度も、共に賛成できないとし、これと比較して北畠親房が「神世の事固より測り易からず」と述べているのは誠に知言と言うべきだろう、と論じていました。

先に、中国の歴史の評価についての宣長と正志斎の論争を見ましたが、聖人の道を肯定しようとするあまり、易姓革命否定の立場において、正志斎に不徹底な部分があったことは否めません。

東湖は、この正志斎の立場を乗り越えたのです。彼は、弘道館記「乃ち西土唐虞三代(堯・舜・夏・殷・周)の治教の如きは、資りて以て皇猷を賛けたまへり」を解説し、次のように述べています。

〈唐虞三代の道はすべてこれを日本に用いてよいであろうかといえば、答えは否である。……けっして用うべからざるものが二つある。禅譲と放伐とがそれである。舜は禹に禅譲し、殷は夏を、周は殷を放伐してこれにかわったが、秦・漢以降、父なき幼帝、夫なき皇后を欺いて帝位を奪ったものたちは、かならず舜と禹の禅譲を口実にしたし、宗国を亡ぼしてその王を殺し、もって天下を奪ったものたちはかならず殷の湯王、周の武王の先例によりどころを求めた〉(橋川文三訳)

そして、さきに挙げた『弘道館記述義』冒頭が儒学派・国学者双方から批判されたのも、東湖が儒学派の信奉する「天地に原づき」と、国学派の信奉する「天神に本づく」とを統合しようと試みたからにほかなりません。

梶山孝夫氏が指摘しているように、『彰考館図書目録』の「神書」の冒頭に収められているのが「伊勢類」と称される伊勢神道書です。そこには神道五部書をはじめ、伊勢神道を復興した度会延佳の「神宮秘伝問答」「続神宮秘伝問答」「陽復記」などが含まれていました。

延佳の説く伊勢神道は、「天地自然の道」として普遍的なものを認めつつも、自国の主体性を守ろうとするものでした。彼が慶安三(一六五〇)年に脱稿した「陽復記」には、「天地自然の道のかの国この国ちがひなき、是ぞ神道なるべき。…神国に生れたる人は神代のむかしを思ひ、国法の古をしたふこそ儒道にも本意ならめ」とあります。

そして東湖もまた、「忠孝仁義という実質は天地はじまって以来、人類の生れつきに備えたところのものである」と述べて、道の普遍性を手放すことなく、神道研鑚を経て、「天神に原づく」と明言したのです。

この東湖の立場について、高須芳次郎は「普遍的な理法と国家的な理法とを思惟した。…天の理法─最も高く、最も尊い理法が太陽を象徴さるゝ天照大御神の上に具象化されてゐるとする。天祖は、天の理法そのものを明示してをられるとする」と解釈しています。

固有性と普遍性を両立しようとした東湖の立場は、吉田松陰にも通じます。彼は『講孟箚記』尽心下篇で次のように書いています。

「道は天下公共の道にして所謂同なり。國體は一国の体にして所謂独なり。君臣・父子・夫婦・長幼・朋友、五者は天下の同なり。皇朝君臣の義、万国に卓越する如きは、一国の独なり」

さらに松陰は「國體も亦道なり」と述べた上で、「水府の論の如く、漢土は実に日本と風気相近ければ、道も大に同じ」とも説きました。

「儒は我が神道の羽翼」

ところで、安政四(一八五七)年五月九日に弘道館の本開館式が挙行され、鹿島神社の遷座祭が行われました。鹿島神社の祭神は、天照大神の国土平定の祖業に貢献した武甕槌命で、常陸一の宮である鹿島神宮から分霊を勧請して祀ったものです。天照大神をお祭りする伊勢神宮をお祭りしなかったのは、臣下の身分として、それは僭越だと考えたからです。そして、鹿島神社とともに孔子廟を建立し、孔子神社を廟中に安置しました。

『弘道館記』には「抑も夫の建御雷神を祀るは何ぞ。其の天功を草昧(国が未開の時)に亮け、威霊をこの土に留めたまへるを以て、其の始めを原ね、その本に報い、民をして斯の道のよりて来る所を知らしめんと欲するなり。其の孔子の廟を営むは何ぞ。唐虞三代の道、此に折衷するを以て、其の徳を欽ひ、其の教へを資り、人をして斯の道の益大、且明かなる所以の偶然ならざるを知らしめんと欲するなり」とあります。また、東湖の『常陸帯』には次のように書かれています。

「武甕槌の神は武神にてまします。文武の学校に武神をのみ祭り給ふはいかがと疑ふ人もあらん。是は深き思召あることにて親しく仰を蒙むるものにあらざれば、其由を知る可からず、君の仰に漢土の学校は必ず孔子を祭る。孔子は聖人にて人の標準とする所あれば誠にさる事なり。されども 神国にて孔子をのみ祭らんには、神道の道を捨て、漢土に従ふに均し。神は斯道の本にて孔子の教は斯道を助け弘むる為なれば、先に神を祭りて道の本を崇め、次に孔子を慕ひて此道のいやまし盛になりぬる由を示すべし」

東湖は、神道における道の内実を強化したのは儒教だった、という信念を維持し続けていたのです。それを支えたのが、冒頭に述べた、光格天皇の御製であり、神道思想を発展させた先人たちの思想だったように見えます。例えば、伊勢神道の度会常彰の『神道明弁』(一七三七年)には、次のように書かれています。

「日本の地を践んで神道を蔑棄し聖学に偏するは其の根に斧して其の葉に漑ぐが如し。士君子以て神道を学ばざるべけんや。大古文字の有無知るべからず。王仁以降、彼の方の書を用ゆ。神国の典籍尽く是れのみ。道は文に由つて以て伝はる。儒は斯の文を講す。故に儒は我が神道の羽翼のみ。聖人の道執れか敬従せざらんや。以て学ばずんばあるべからす」

この常彰の言葉を引いた菊池謙二郎は、「度会の神道説と水戸学の神道解とは符節を合はするが如く殆ど一致してゐる」と述べています。東湖は、『常陸帯』で「神皇の道に背きて漢土の道に随ひぬると、漢土の道を取りて、神皇の道を助けぬるとの差別知すんば有る可からず」とも書いています。

東湖は『弘道館記述義』においては、もしわが国の道と儒教が同じ気から生じた花と実のように共通したものであるとするならば、儒教を排することは、わが神道を矮小化することだと述べています。

民族の誇りと自信は、確かにその固有性を強調することによってもたらされます。宣長の功績もその点にあります。しかし、各民族の固有性が時と場所を越えて尊重され続けるためには、その普遍性を維持する不断の努力が要求されます。

東湖は、わが国の道、皇道に普遍性があり、しかもそれが衰えることなく実践されることを前提として、「外国の国々もまた、わが国の徳を慕い、その恵みを仰ごうとしないものはなくなるであろう」と書いたのです。

國體の尊厳は、固有かつ普遍であることによって保たれ続けるのだと思います。そして、皇道の普遍性を高めるためには、外来思想に対して、排除でも追従でもなく、皇道を強化する形で受容しなければならないと思います。