水戸学に至る『神皇正統記』継述(『月刊日本』平成27年8月号)

伊勢神道に遡る東湖の思想

弘道館記述義②水戸市六反田町の六地蔵寺(六蔵寺)は、樹齢百八十年の見事な枝垂桜で知られています。この桜は、水戸光圀(義公)が鑑賞した桜の子孫と言われています。六地蔵寺は真言宗豊山派の寺で、創建は大同二(八〇七)年頃とされています。応仁の乱の混乱の最中に、西国の諸大寺に遊学し、数多くの書物を書写収集したのが同寺中興第三世の恵範でした。そして、恵範の弟子で、第四世になった恵潤は北畠親房の『神皇正統記』の書写に取り組み、大永八(一五二八)年にそれを完了したのです。

明暦三(一六五七)年に史局を設けて『大日本史』編纂に着手した義公は、六地蔵寺の蔵書に注目していました。延宝二(一六七四)年、その蔵書を保存するために書庫を建設し、「法宝蔵」と命名したのです。

寛政二(一七九〇)年に、この六地蔵寺所蔵の『神皇正統記』を校合したのが、藤田東湖の父幽谷だったのです。

時を経て大正十五(一九二六)年十月、六地蔵寺蔵書に注目していた平泉澄先生は、同寺に赴き、蔵書の調査整理を開始しました。昭和二年と三年にも東大国史学科学生を同行して調査整理に尽力しました。しかし、蔵書にあるはずの『神皇正統記』は見つからなかったのです。

ところが平成三(一九九一)年、茨城県立歴史館が県史編纂史料調査のために常北町(現城里町)教育委員会を訪れた際、保管されている典籍の中からこの『神皇正統記』が発見されたのです。明治初年に寺外に流出した後、常北町の庄屋・一木家が保存していたものが、常北町史編纂のための町内史料収集によって常北町教育委員会に寄贈されていたのです。

東湖の國體への自覚を考えるとき、まず遡らねばならないのが幽谷であり、幽谷の思想を考えるとき遡らねばならないのが『保建大記』を著した栗山潜鋒です。そして、潜鋒、幽谷、東湖のいずれもが強い影響を受けていたのが、『神皇正統記』だったのです。

建武三(一三三六)年に湊川の戦いで敗れた楠公は、弟の正季と「七生滅賊」を誓い、刺し違えて自刃しました。その二年後の延元三(一三三八)年九月、南朝方の諸将を結集して勢力を盛り返そうとした親房は、伊勢から東北へ向けて出航します。ところが、途中上総沖で暴風雨に遭い、親房の乗っていた船は常陸の霞ヶ浦に漂着。親房らは南朝方の武将の小田治久を頼って、現在のつくば市にあった小田城に入城しました。翌延元四年、後醍醐天皇が崩御し、後村上天皇が即位します。この時期、親房が新帝に献上すべく執筆したのが、『神皇正統記』です。

名越時正は、「栗山潜鋒、藤田幽谷、同東湖この三者を貫流するものに神皇正統記に対する純真なる継述の精神があり、親房に対する深い景慕の念の存すること、又その景慕の念継述の精神が正学を愈々深め志を益々堅からしめて遂に天下の等しく推す水戸学の完成となつた」と書いています。さらに名越は、この道統が楠公・親房公を仰ぎ、その悲願に涙するものであることを知らずして、「国史の真実」を論ずるは不当であるとまで述べています。

崎門・垂加の学とその源流の一つ伊勢神道の存在抜きに、この道統の内実を考えることはできません。そもそも、「嘉(山崎闇斎)常に謂ふ、正統記は是れ吾国の資治通鑑なり」とあるように、闇斎は『神皇正統記』を特に重視していました。闇斎は親房の『元元集』からも強い影響を受けています。近藤啓吾先生が指摘されている通り、『元元集』は伊勢神道の「神道五部書」の一書『倭姫命世記』と並んで、闇斎の思想を貫く一本の柱でした。ちなみに、『倭姫命世記』には『神皇正統記』と同様に、「大日本は神国なり」と書かれています。

さて、栗山潜鋒が師事した鵜飼錬斎と桑名松雲は、ともに闇斎直門であり、特に松雲は闇斎の終焉まで侍した門人でした。潜鋒は松雲を通じて、崎門の儒学と神道をともに修めたのです。

第百十一代後西天皇の第八皇子・尚仁親王にご進講申し上げていたのが、錬斎、松雲と浅井琳庵です。琳庵もまた晩年の闇斎の門人です。

潜鋒は、貞享元(一六八四)年、錬斎の推薦によって、尚仁親王の御学友となり、元禄元(一六八八)年、十八歳のときに尚仁親王に『保平綱史』を献上しました。後にこれを増補したものが『保建大記』です。同書は、およそ保元から建久、より正確には、後白河天皇宝祚から崩御に至る、久寿二(一一五五)年から建久三(一一九二)年までの三十八年間を扱い、皇室の衰微と武家政治の萌兆をもたらした戦乱の根源がどこにあったかを究明したものです。

三宅観瀾は、『保建大記』に序し、『神皇正統記』の嶄然卓絶することを讃えると共に、『保建大記』こそこれに次ぐ書であると述べています。

実際、潜鋒は『神皇正統記』から大きな影響を受けていました。彼は「正統記ナド別シテ面白キ書也。親房ノ書ニアダナルハナシ。職原抄ナドモ古今ヲ用ユ。親房和漢仏学アリ。尺素ニ親房ノ通鑑綱目見ラレタルコトアリ」と語っていました。また、『中村雑記』に「栗山子云、ワカキ時京ニテ六戸部寿仙トヤラン云人ノ覚書ヲカリウツス時ニ、ソノヲクニ正統記ヲ引キ大友ヲ天皇トゾカケルトアリ」とあるように、潜鋒は『神皇正統記』を書写していたのです。

ところで、興国二(一三四一)年に小田城が落城すると、親房は関城(現在の茨城県筑西市)に移ります。ここで親房は、有力武将結城宗広の子、親朝に宛てて書状『関城書』を書きました。ここで親房は、國體を論じ、朝廷に対して忠節を尽くすべきことを説いて、親朝の決起を促したのです。親房に対する潜鋒の絶対的な信頼は『関城書』によって固められたのです。名越は次のように書いています。

「即ち潜鋒は関城書を読み、始めて当時の情勢に於いて親房の至誠に無限の感激を覚え、その胸中を切実に察して涕せざるを得なかつたのであつた。そしてこの志を知つてはじめてその才、その識の万世に比類なきを覚え、賊天下を陥るとも遂に吉野を犯すことの出来なかつた理を悟るに至つた」

常陸に寓した身近な先哲・北畠親房

幼少期から学才高く神童とうたわれた藤田幽谷が強い影響を受けたのが、『保建大記』です。会沢正志斎が幽谷の教誨を録した『及門遺範』には、「成童にして保建大記を読み、憤発興起、此れより読書を好むこと他日に倍す」とあります。

名越は、『保建大記』に発奮した幽谷が、学問を進めるに当たって、何よりも『神皇正統記』を読破したであろうことは想像に難くない、と書いています。

幽谷は、天明八(一七八八)年に立原翠軒の推薦で彰考館に入りました。彰考館に「幽谷自筆史料抄録」と題したノートが所蔵されています。そのノートの最初に抄録されているのが『神皇正統記』です。名越は、「幽谷の胸中には、ただに『神皇正統記』・『職原抄』のみならず、北畠親房その人が思慕の的であった。而もそれは『吾が常陸に寓し』た身近な先哲として、幽谷にとって不離の亀鑑となつて居たのである」と指摘しています。遺稿集『閑道篇』に収められた正志斎の詩「詠史」にも、郷土常陸の先哲として親房を深く景慕したことが示されています。晩年、幽谷は館僚の青山延于が刊行した『皇朝史略』に序文を寄せ、「廼ち正統記及び職原抄の作有り。其の國體を存し、廃典を修むる所以のもの、千古寥寥、絶無にして僅かに有り」と記しています。

親房に対する幽谷の景仰は、時を経て、東湖にも引き継がれていくのです。幽谷歿後四半世紀後の嘉永五(一八五二)年、東湖はこの幽谷の序文を、立原杏所の描いた親房の肖像の上に自ら筆をとって書したのです。父幽谷の思いを継ごうとする、東湖の強烈な思いが伝わってきます。

前回紹介した東湖の回天詩史には次のようにあります。

「六史以下炳焉として日星の如きもの、未だ我が大日本史に及ぶものあらざるなり。其の鈔といひ、其の記といひ、其の他家乘日録、牛に汗し棟に充ちて、巍然山岳の如きもの、神皇正統記に若くはなし。[正統記の作、國體を明かにし、名分を正す、実に神州の亀鑑たり、而して侫仏の累なき能はず。嗚呼卓識准后の如きすら猶尚此の如し。邪説の世を惑はし、習俗の人を移す、畏るべきかな。]源准后素より忠貞の節を懐きて、世の喪乱に遭ひ、間関流寓、千里漂泊、仰いで皇道の陵遅を歎じ、伏して奸兇の驕恣を憤る、想ふに其の心を痛まし慎を発する、果して何如ぞや」

そして、親房に対する東湖の景仰は彼自身の自覚と発奮を促していくのです。

東湖は『弘道館記』尊王攘夷を解して、「わが堂々たる神州は天照大神の御子孫が世々神器を奉じて四方に君臨したまい、上下・内外の分は天地と同じくかえることができぬ」と強調しましたが、この点は、『神皇正統記』、『保建大記』、『正名論』のいずれもが強調した点です。

『神皇正統記』後嵯峨院の条には、「異朝のことは乱逆にして紀なきためしおほければ、例とするにたらず。我国は神明の誓いちじるくして、上下の分さだまれり」とあります。

『保建大記』には「蓋し邦を有つ者は、当に祖訓を慎み、名分を明かにして、以て民志を定め、窺覦(身分不相応なことをうかがい望むこと=引用者)を杜ぐべきなり。故に君を立つるは必ず一種に定まりて、君臣の分厳なり」と、また『正名論』には「天地ありて、然る後に君臣あり。君臣ありて、然る後に上下あり。上下ありて、然る後に礼儀措くところあり。卑しくも君臣の名、正しからずして、上下の分、厳ならざれば、すなはち尊卑は位を易へ、貴賤は所を失ひ、強は弱を凌ぎ、衆は暴して、亡ぶること日なけん」とあります。

『弘道館記述義』に明確に示されている、「武人の専横による皇室の衰微」という視点もまた、『正名論』にある「『武人、大君となる』に幾し」と同一であり、『神皇正統記』、『保建大記』が強調していたことにほかなりません。

また、『弘道館記述義』には「そもそも華夷・内外を区別することは天下の大鉄則である」とあります。この華夷内外の弁の強調についても、同様です。

『神皇正統記』孝霊天皇の条には、「凡、此国をば君子不死の国とも云なり。孔子世のみだれたる事を歎て、九夷にをらんとの給ける。日本は九夷の其一なるべし。異国には此国を東夷とす。此国よりは又彼国をも西蕃と云へるがごとし」と書かれています。

華夷内外の弁は、崎門学正統派が強調してきたことですが、『保建大記』には「華夷何の常か之れ有らん。華にして夷の礼を用ゐれば、則ち夷なり。夷にして華に進めば、則ち之を華にするは、古の制なり」とあります。そして幽谷も「君臣の名、華夷の分を知らず」と荻生徂徠を批判したように、華夷内外の弁を重視していました。

「宝玉は玉体と一体」

東湖は『弘道館記述義』で、義公の功績を称え、『大日本史』によって、皇統の正閏が明白になったことを強調しています。義公は、当時の学界の常識に反する「南朝をもって正統とする」という方針に沿って『大日本史』編纂事業を推進できる人物を探していました。そして、ついにその適任者として見出した人物こそ、栗山潜鋒だったのです。

尚仁親王の薨去から三年後の元禄五(一六九二)年、潜鋒は義公に招かれ、史官となったのです。義公の南朝正統論を支えたのが、潜鋒の三種の神器論であり、それを支えていたのが、『神皇正統記』の以下の部分でした。

「又此鏡の如に分明なるをもて、天下に照臨し給へ。八坂瓊のひろがれるが如く曲妙をもて、天下をしろしめせ。神剣をひきさげては不順るものをたひらげ給。と勅ましましけるとぞ。此国の神霊として、皇統一種たゞしくまします事、まことに是らの勅にみへたり。三種の神器世に伝こと日月星の天にあるにおなじ」

この『神皇正統記』の一節を受けて、潜鋒は『保建大記』で、「躬に三器を擁するを以て、我が真主と為るに至りては、則ち臣鬼神に要質して疑ひなく、百世以て其の人を俟ちて惑はざるなり」と説くのです。この潜鋒の立場が『大日本史』編纂にも反映されています。『大日本史』には「西東の争、南北の乱、皇統を正閏するは唯だ神器の存否に視る」と書かれているのです。

また、闇斎の神道における高弟正親町公通は「人皇の始めは、天照皇大神にして、それによりて三種神器を正統と立て書に著はすは、神皇正統記のみ」と述べていました。

しかし、水戸藩には、潜鋒とは異なる立場がありました。例えば、三宅観瀾は、帝徳が盛んであった上古には神器と皇統の別はなかったが、道が衰えた後世には、「器の徳、是に於いて軽からざること能は」ざる故、神器の有無によって正統を弁ずるのは危険であるとし、「正統は義に在りて器に在らず」と主張していました。

こうした観瀾らの正統論を批判し、『神皇正統記』─『保建大記』の神器論を継承してきたのが、崎門正統派にほかなりません。彼らは、神器が奪われた場合はどうなるのかという仮定そのものを退けてきたのです。近藤啓吾先生は、『拘幽操』に寄せた闇斎の跋文にある「不是底の君父なし」を引き、「始めより力をもつて神器を奪つて天子となつてもといふ仮定さへも考へるはずはなく、また史実に徴してもかくのごとき事実曽てなかったのである」と書かれています。

ところで東湖は、『弘道館記述義』で次のように述べています。

〈はじめ天孫が地上に降臨したもうたとき、天照大神は三種の神器をこれに授けたもうた。玉と鏡と剣の三つがそれである〔神器の順位は『書紀』『古事記』ともみな同じである。ところが『古語拾遺』には「すなわち八咫鏡および草薙剣の二種の神宝を皇孫に授けたもうて永久に皇位を象徴する天璽とし、矛と玉とはその付随の品とされた」と述べられ、さらにその「天璽」のところに「いわゆる神璽の剣と鏡、がそれである」とみずから注を加えている。「神祇令」(『大宝令』の一篇)には「およそ践祚の日、中臣氏が天つ神の寿詞を奏し、忌部氏が神璽の鏡と剣とを捧げ奉る」とある〉

東湖が引いたように、『古語拾遺』には「即ち八咫鏡及び草薙剣の二種の神宝を以て皇孫に授け賜ひて、永く天璽と為たまふ。矛玉は自ら従ふ」とあります。

この『古語拾遺』の言葉に注目した先駆者こそ、北畠親房だったのです。『神皇正統記』には「天孫も玉矛者みづからしたがへ給といふ事見たり(古語拾遺の説なり)」と書かれています。近藤啓吾先生は「山崎闇斎と『古語拾遺』─神器は三種か二種か」(『続々山崎闇斎の研究』所収)で、この問題に焦点を当てられています。

ここで近藤先生が指摘されているように、親房の『元元集』神器伝受篇には、三種の宝物は一を缺くも不可であるが、宝鏡と宝剣とは、崇神天皇の御時、神威を畏れて従前宮中に奉祀申上げていたのを止め、別宮に奉遷し、別に鏡・剣を造って護身の璽としたもうたが、宝玉はかつて御身を離れたことがなく、その古のままに斎き申上げている。即ち八坂瓊曲玉は、「自ら従って改まらず」、ここに深き所以のあることを知らねばならぬ、との主旨が書かれています。

この親房の立場を継いだのが闇斎です。近藤先生は、「彼れ(闇斎)は親房の歩んだ道をみづから践みつつ、さらに博捜沈思して、つひに三種にして二種、二種にして一種であり、三種といふも二種といふも、神器の実体に於いては違ひはなく、天照大神の御心が宝玉として御歴代天皇の御心を貫いてゐるのであるといふ結論に達したのであつた」と書かれています。

闇斎はまた、宝玉は玉体と一体であり、その明らかなる徳を鏡とし、その厳なる徳を剣としたものであり、鏡・剣の二器は宝玉に統べられるとも説いたのです。潜鋒の『保建大記』には「三種統一の道器」とあり、それを解説した谷秦山の『保建大記打聞』には、「三種統一トハ三種ハ二種、二種ハ一種ト申ス秘訣侍ルトカヤ」とあります。

ところが、本居宣長は「矛玉は自ら従ふ」の「従」を従属の意味ととらえ、鏡・剣が神宝の主体であり、玉はそれに及ばないが、ただ何となくそれに添えて賜ったのだと解したのです。これに対して、先ほど引いた『弘道館記述義』の一節に続けて、東湖は次のように書いています。

〈論者(本居宣長)の中には神器には軽重があることを論ずるものもある。その説には理由がなくはない。しかし三種の神器の名は由来も古いし、『古事記』と『書紀』ではともに符合しているので、その先後軽重を軽々しく論ずべきではない」

「軽々しく論ずべきではない」という東湖の立場は、神器の問題を考えるに当って博く諸書に当たり、しかもその結論を出だすことには極めて慎重な姿勢だった闇斎の立場に通ずるものがあります。

そして、「自ら従ふ」の「自ら」を深く捉えたのが、闇斎の垂加神道を受け継いだ谷川士清でした。彼は『日本書紀通証』で、「自ら」について、「自字兼自然自己両義看」(自の字、自然・自己の両義を兼ねて看よ)と指摘していたのです。これを受けて、「自ら従ふ」について、近藤先生は、宝玉がおのずから御身を離れずという意と、宝玉みずからが御身を離れることがなかったという意を兼ねたものということができると書いています。

ところで、 元弘元(一三三一)年、御醍醐天皇は、笠置山に立て籠もっていましたが、幕府方の奇襲を受け、楠公の立て籠もる赤坂に向かう途中、幕府方の兵にとらえられ、十月一日、宇治の平等院へ移されました。同日、鎌倉の使者、大仏貞直、金澤貞将の両大将が来て天皇に拝謁し、三種の神器を持明院の新帝へ御渡し下さるように申し上げました。『太平記』によると、その際、後醍醐天皇は藤原藤房を通じて、次のように述べて断固拒否したのです。

「三種の神器は昔より継体の君位を天に受けさせ給ふ時、自らこれを授け奉る。されば、四海に威を振るふ逆臣あつて、しばらく天下を掌に握る者ありといへども、いまだこの三種の重器を自ら専して新帝に渡し奉る例を聞かず。……宝剣は片時も御身を放たず有つといへども、これはまた武家の輩のもし天罰を顧みずして、玉体に近づき奉る事もあらば、匹夫卑夫の蓬き手に触れんより、御自その刃の上に臥し給はんためなれば、玉体を放るる事はゆめゆめあるまじきなり」(『新編日本古典文学全集 太平記2』小学館刊)

近藤先生は、先ほど述べた「天照大神の御心が宝玉として御歴代天皇の御心を貫いてゐる」という結論を得て初めて、闇斎がこの『太平記』の記述に深き恐懼を覚えたと書かれています。「宝玉と玉体の一体」に対する確信です。

『弘道館記述義』に至る國體論の発展を振り返るとき、『古事記』、『日本書紀』は言うまでもなく、親房と崎門の学、そしてそれらの基盤にあった伊勢神道の思想的な役割の大きさを痛感します。