逆境から生まれた『弘道館記述義』(『月刊日本』平成27年7月号)

藤田東湖の三度の決死

弘道館記述義①弘化元(一八四四)年五月、徳川幕府は七か条の罪状をもって、水戸藩第九代藩主徳川斉昭(烈公)に隠居謹慎を命じました。この年、藤田東湖が詠んだのが『回天詩史』です。「回天」とは世の中の形勢を正しい道に引き戻すということです。主君である烈公が隠居謹慎を命じられて失意のうちにあり、自分もまた世間に容れられない状況にあるが、自分も主君も勤皇の志によって国家のために尽くしているのであり、やがて自分たちの志は報いられ、皇室の御威光も輝くようになり、国難も打開されるときがくるだろうという気持ちを込め、「回天」という言葉を冠したのです。

『回天詩史』の冒頭にある有名な一節が「三たび死を決して 而も死せず」です。

「三度」のうちの一度目は、文政七(一八二四)年の大津浜事件です。同年五月二十八日、大津浜(現北茨城市)にイギリスの捕鯨船が来航し、十二名の船員が不法上陸してきました。船員たちが測量をするなど、不審な行動を取ったため、村民は彼らを捕らえて水戸藩当局に通報しました。

藩当局はまず事態を幕府に報告し、会沢正志斎らを現地に派遣しました。船員たちは捕鯨が目的だと主張しましたが、正志斎らは彼らに領土的野心があると判断し、確固たる態度で臨むべきだと報告したのです。ところが、藩当局は強硬な処置をとることなく、処遇を幕府に委ねたのです。幕府は代官ら二十数名を派遣して取り調べを開始しました。これを知った東湖の父幽谷は、東湖を呼んで、次のように命じました。

「今の世の中、ことなかれ主義がはびこっている。私はこのことを恐れる。幕府は今回の事件でも強硬な態度を取れないで、イギリス人たちを放還するであろう。こうなれば日本の威厳と独立は失われてしまう。私はこのことが恥ずかしい。故に汝は私の代わりに大津浜に急行し、もしイギリス人が放免されたら無礼なる彼らを斬れ。斬った後、当局に自首し裁決を請うこと。今回の行動によって日本の正氣が発揚されることになる。わが家は女子が多く男子は汝一人だけである。一人息子の汝が死ねばわが藤田家は絶えることになる。これも運命である。日本の正氣が発揚されればそれでよい。このことは心配しないで死んでこい」

東湖は父の命令通り、死を覚悟して大津浜に赴くことを決意しました。幽谷は感涙にむせび、「それでこそ自分の息子である」と言って、別れの杯を酌み交わしました。

そのときです。東湖の伯父・丹一郎兵衛がやって来て、「代官らが船員を取り調べた結果、彼らに領土的野心はないと判断して、食料と燃料を与えて引き取らせた」と告げたのです。こうして、東湖の大津浜行きは中止となったのです。これが最初の決死です。

二度目は、文政十二(一八二九)年の敬三郎(斉昭)擁立です。第八代藩主斉脩は病弱だったため、藩主継嗣が重大な問題となっていました。文政十一(一八二八)年に入ると、家老榊原照昌や赤林重興ら保守門閥派は、幕府からの経済的援助を期待して、将軍家斉の子である清水恒之丞を跡継ぎに迎えようとしました。

東湖らの尊攘改革派はこれに反発し、斉脩の異母弟・敬三郎擁立に動いたのです。文政十二年十月一日、東湖は山野辺兵庫、武田耕雲斎、安島帯刀、会沢正志斎らとともに、藩の禁を犯して無断で江戸へ急行したのです。万一咎めがかかれば、死罪となるかもしれません。十月四日に斉脩は死去、幸い「敬三郎を養子とする」旨の遺書が見つかり、継嗣問題は終結しました。こうして敬三郎は第九代藩主に就任、斉昭と名乗ることになったのです。これが、東湖二度目の決死です。

烈公は人事を一新して、藩政改革に着手します。長年の旧弊である腐敗停滞を打破するため、腐敗の元凶であった門閥の重臣を抑え、東湖ら幽谷門下の道義を重んずる者を抜擢したのです。これを快く思わない保守門閥派は、烈公の改革に抵抗することになるのです。こうした改革派と保守門閥派の綱引きが続く中で、東湖三度目の決死は訪れるのです。

弘化元年の斉昭処罰です。神道復興を進めていた烈公は、一村一社制を徹底するとともに寺院整理を行い、梵鐘を徴集して大砲鋳造の材料としていました。天保十四(一八四三)年には、さらに寺院整理を強化し、水戸東照宮の神仏混合を禁じて神道一本としたのです。これに対して、烈公の改革に不満を懐いていた保守門閥派は、不満を募らせていた僧侶とともに幕府に対して烈公および改革派を纔言したのです。

そして、水野忠邦に代わって阿部正弘が老中に就いてまもなくの天保十五年(弘化元年)五月、突然烈公は「近年追々御気随の趣相聞へ、御矯慢募られ、すべて御自己の御了簡をもって御制度に触れられ候事」を将軍も不快に思われ、このたび隠居謹慎を仰せつける、と通告されたのです。

処罰は、烈公だけではなく、家老重職四名と東湖、戸田忠敞、今井金右衛門の三人にも及びました。三人の処罰は、免職、蟄居という非常に重いものでした。これが、「弘化甲辰の変」、「甲辰の国難」と呼ばれる事件です。

「主君に冤罪をかけられるような不手際をしたのは側用人の自分の責任である」と考えた東湖は、烈公を擁護するために切腹しようと決意したのです。これが三度目の決死です。この時彼が辞世の句として詠んだのが、次の句です。

君辱めらるれば臣まさに死すべし。死豈毫も辞すべけんや

ところが、まもなく烈公は東湖を呼び出し、「今回、幕府と対決するのはまずい。幕府の命に従おうと思う。いつの日か冤罪であることがわかる。それまで軽挙妄動を慎むように」と告げたのでした。東湖は、「今自分が切腹すれば、主君の無罪を証明することができず、かえって幕府の術中に陥る。そうなれば不忠をすることになる」と思い直し、切腹を思い止まったのです。

『正氣歌』─わが国の「無窮の命脈」の確信

東湖は、小石川の藩邸内の長屋の一室に押し込まれました。部屋の外には一歩も出ることが許されず、三度の食事も下僕が差し入れるという極めて重い罪です。盛夏になると、部屋の中は蒸し風呂のような暑さで、汗にまみれた体臭が鼻をつき、極めて不衛生な生活を強いられたのです。「汗と垢と蝨との戦い」です。

東湖はこうした過酷な状況に怯むことなく、日夜著述に励みました。五月十一日には『東湖随筆』を、そして同月六日には『回天詩史』を起稿し、さらに八月には烈公の藩政改革の理想と経過を記した『常陸帯』を執筆するのです。東湖は、翌弘化二年二月、小石川から、隅田川を渡って向島小梅の水戸藩下屋敷に移されました。ここに移されたのは、保守門閥派が東湖をさらに苦しめ、病死または暗殺するのに向島は人通りがなく絶好の場所だったからだとも言われています。

この苦難の時期に東湖の心を支えていたのが、文天祥の『正氣歌』です。天祥は、浅見絅斎が『靖献遺言』で取り上げた南宋の忠臣です。南宋が亡んだ後も、元に仕えることを頑なに拒否し、牢獄に幽閉されました。東湖の蟄居同様、天祥が置かれた環境は劣悪でした。牢獄は狭く、湿気や様々な悪臭が充満していました。天祥は虚弱の身であるにもかかわらず、ここに二年間幽閉されながら無事に過ごすことができたのです。このとき彼が詠んだのが、『正氣歌』です。

天祥は、『正氣歌』序で、自らの奇跡的な生還について「これは誠に、平素養うところがあった結果であるといってよいであろう。然らばその養うところとは何か。孟子の言に『吾れ善く吾が浩然の気を養う』とあるが、それはこの浩然の気にほかならない」と書いています。

天祥は『正氣歌』において、諸葛亮(孔明)などの歴史を振り返った上で、「是の気の磅礡する所 凛烈として万古に存す 其の日月を貫くに当っては 生死安んぞ論ずるに足らん」と詠んでいます。

東湖の父幽谷は、盃をかたむける度に、天祥の『正氣歌』を愛誦してやまなかったといいます。東湖はすでに八、九歳の頃に幽谷から『正氣歌』を教えられ、一句も違わずに暗誦し、好んで義人烈士の行状を読みました。

東湖が自ら君臣の義を明らかにし、道義のために生死をかける覚悟を語ったのが、弘化二年十一月に作った五言七十四句の『文天祥正氣の歌に和す』です。

天地正大の氣、粹然(純粋)として神州に鍾まる

この一節で詠み始めた東湖は、わが国土の美と国体の尊厳を説きます。続いて、中臣鎌足や大楠公の事績によって、いかなるときにも正氣は決して消え失せない歴史を説き、次のようにまとめるのです。

乃ち知る、人亡ぶと雖も、英霊未だ嘗て泯びず

長く天地の間に在り、凛然彝倫(人倫)を敍ず

東湖はさらに、正氣を扶持する水戸藩の本領、特に尊皇攘夷の思想を詠じます。そして、最後に自らの志を鮮烈に示すのです。

荏苒(なすことのないまま歳月が過ぎる)二周星(二年)、独り斯の氣の随ふあり

嗟、予万死すと雖も、豈汝(正氣)と離るるに忍びんや

屈伸天地に付す、生死又奚ぞ疑はん

生きては当に君冤を雪ぐべし、復見ん四維(礼・義・廉・恥)の張るを

死しては忠義の鬼と為り、極天皇基を護らむ

この部分を、昭和十六年七月に興亜教育会が編纂した解説書は、次のように説明しています。

〈かくして幽囚生活もだんだん長引き、茲に二周年の星霜を過し、顧みて何とも悲憤慷慨に堪へないものがある。けれども唯力強く思ふことには、此の正大の氣が我が魂となつて身に随うて居ることである。嗟、自分は今此の厄難に遭遇し、万が一にも生きることがないとしても、此の正氣と離れることは忍び得ない。自分は一身の屈伸浮沈などは天地自然のままに委せ、生死また問題でなく、平然自若、びくともせぬ決心で居る。若し幸に生きて世の中に出ることが出来たならば、正氣の発するところ、極力我が主君の冤罪を雪ぐことに努めよう。然らば主君が以前藩政をとられた時のやうに国内の紀律(網維)が立派に立ち、復び盛世を見ることであらう。不幸にして死んでも、忠義の霊魂となり、天地のあらん限り皇国の基礎を奉護し、我が本分を必ず果したいものである〉

鶴見神社宮司の花谷幸比古氏は、天祥の『正氣歌』を読み、道義の尊厳に目覚めた東湖は、日本の歴史を学ぶことにより、自分の生命尊重を越えて存在する無窮の命脈が祖国に存在することを知ったと指摘し、次のように続けています。

〈歴史は流転し変化する特性がある。それが日本史および世界史の一般である。その波瀾万丈のうちに展開する歴史の中で、日本は建国以来、一系の皇統を伝えてきた。他国にはない無窮の命脈が存在する。しかしその存在には、歴史上の忠臣たちが生命をかけて守り通した厳然たる事実の上に成り立っている。彼らは死に直面しても節操を変えず、殺されても道義を守り通した。東湖の言葉で言えば、正氣によって生きた人々の努力で無窮の命脈、悠久の大義が守られてきたのである〉

国史研究による確信によって固められた、この國體への自覚こそが、東湖と天祥を分かつものであり、東湖自身、『正氣歌』の序で次のように言い切っています。

「天祥曰く、浩然とは、天地の正氣也と。余、其の説を広めて曰く、正氣とは、道義の積る所、忠孝の発する所なり。然るに彼の所謂正氣とは、秦・漢・唐・宋、変易して一ならず。我が所謂正氣とは、万世に亘つて変らざる者也、天地を極めて易らざる者也」

そして、東湖のこの姿勢は『弘道館記述義』にも活かされることになるのです。

天祥の『正氣歌』に触発されたのは、東湖だけではありません。常に『靖献遺言』を懐中に忍ばせていたという橋本左内もまた、獄中で次のように詠みました。

二十六年 夢の如く過ぐ

顧みて平昔を思えば 感滋多し

天祥の大節 嘗て心折す

土室猶吟ず 正氣の歌

やはり『靖献遺言』に傾倒していた吉田松陰もまた、獄中において天祥の『正氣歌』に和して長詩を作り、次のように結んでいます。

聖賢企て難しと雖、吾が志は平昔にあり

願わくは正氣を留め得て、聊か添へん山水の色

東湖、左内、松陰らが到達した境地は、『靖献遺言』に収められた諸葛亮「後出師表」にある「臣、鞠躬力を尽くし、死して後已まん。成敗利鈍に至りては、臣の明能く逆じめ覩るところにあらざるなり」や、陶潜(陶淵明)の「帰去来辞」の最後の一句「かの天命を楽しみ復たなにを疑はん」を髣髴とさせます。

東湖の境地は、『靖献遺言』で固めた男、梅田雲浜にも通じます。雲浜は「事成らずして倒るるも、その志は長く世に伝はり、勤皇の魁と相成り候へば、又是れ男子の大幸ならずや」と書いていたのです。雲浜とも交流のあった東湖は、『靖献遺言』の精神で繋がっていたのです。

弘道館設立の志─わが国の独立と発展

さて、『正氣歌』に示された強靭な精神と國體の尊厳への誇りに支えられて、弘化二(一八四五)年十二月十一日に東湖が書き始めたのが、『弘道館記』の解説書『弘道館記述義』です。東湖は、極めて短期間のうちに、しかも幽囚生活という苛酷な状況の中で、『東湖随筆』、『回天詩史』、『常陸帯』、『正氣歌』、『弘道館記述義』を次々と執筆したのです。北條猛次郎は『維新水戸学派の活躍』において、次のように書いています。

「此等の著一たび出づるや、海内翕然として之に向ひ、百方手を尽くし甲乙伝写し、瞬く間に秘密に広布せられ、以て天下志士の熱血を湧かした。/松陰門下の野村和作(後ち子爵野村靖)は江戸遊学の途自ら筆写したる弘道館記述義を村塾へ忘れ来りしとて、これが至急取寄方を久坂玄瑞に依頼せる手紙が見える。/恐らくは当時に在りては一日たりとも此書の手離し難きを痛感したものであらう」

『弘道館記述義』の内容に入る前に、弘道館について書いておきたいと思います。

学校創設の意向を抱いた烈公は天保五(一八三四)年十二月、「建学の議」を藩の重役たちに下付します。ところが、水戸の家老たちが烈公に示した学校教授陣の人選は、保守派に偏向していました。そこで、烈公は天保六年六月、東湖を御用調役に、八月戸田忠敞を側用人見習にそれぞれ任じ、新体制で学校建設の準備に着手させたのです。

但野正弘氏が指摘しているように、弘道館はロシアやイギリスなどの外国勢力がわが国に迫りつつある重大な時期に、腐敗堕落の風潮を打破し、国家の独立と発展のための優れた人材作りで水戸藩が魁となるという自覚に基づいて構想されました。東湖が『回天詩史』で「三千載未だ嘗てこれ有らざる学校を建つ」と述べるほど雄大な計画だったのです。

しかも、弘道館設立の志は義公の精神への回帰でもありました。東湖は、『弘道館記述義』で〈根本精神は文武を統合し、政治と文教の一体化を目標とし、全体を忠孝の大義にもとづかせようとされたものであった。思うに義公の修史の精神と、斉昭公の学校設立の精神とは立場をかえれば同じものであったといえよう〉と書いています。

天保七年秋からの大飢饉によって学校建設計画は中断されましたが、天保八年六月十日に、東湖は「学校御碑文」を起草せよとの命を、烈公から受けたのです。これが『弘道館記』となるわけですが、当初は「学校御碑文」と称されることが多かったようです。

実は、東湖は先輩の会沢正志斎に『弘道館記』の作成を依頼していました。すでに、正志斎は文政八(一八二五)年に後期水戸学を代表する國體論『新論』を書き、尊攘派に強い影響を与えていました。ところが、正志斎は『弘道館記』作成を辞退したのです。その理由ははっきりしていません。

いずれにせよ、東湖は苦心の末、天保八年七月三日に、自ら『弘道館記』の草稿を書き上げました。東湖はその草案を、まず昌平黌の儒官(総長)の佐藤一斎に見せて添削批評を求め、続いて彰考館総裁を務めた青山拙斎(雲龍)と正志斎の両碩学とともに、検討を加えました。その上で、さらに修正を加えて完成されるのです。まさに、練りに練って作られた文章です。

弘道館には、天照大神の国土平定の祖業に貢献した武甕槌命(武御雷命)を祭神とする鹿島神社と孔子廟とを併設することが決まっていましたが、日本の神と孔子が同列というわけにはいきません。水戸史学会会長の宮田正彦氏が指摘しているように、華夷内外の弁を明確に表現するという要請から、『弘道館記』において「孔子」をどう記述するかについても、東湖らは大変な苦心をしたのです。「孔子」という表現には尊重の意味が含まれるので、烈公はその名の「丘」を用いたいとの意向を東湖に示していました。そこで、東湖は原案においては、学令に用いられている「孔宣父」という表現を採用しました。このように『弘道館記述義』は、一字一句に対する細心の配慮を経て完成、天保九(一八三八)年三月に、烈公の名で正式に発表されたのです。

『弘道館記』は、「弘道」の意味について、「人が道を弘めるのであり、道が自然に弘まるのではない。我々の努力によって道は弘まり、また維持されるのである」と説明しています。

また同校の教育方針と学生としての心得について、「忠孝一致、文武一致、学問事業一致、神儒一致に留意して、みんなの考えを集め、すべての人の力を伸ばして国家から受ける限りなき恩恵に報いるべきである」と述べています。

一字一句慎重に字句を選んで成った『弘道館記』は短い文章ですが、そこには深い意義が凝縮されていて、一読しただけでは、その内容のエッセンスを把握することが難しい面もあります。だからこそ、一般の人に、その意味を十分に理解させるための解説書が必要とされたのです。そこで烈公は、仮開校式後、『弘道館記』の解説書として、東湖には一般向けの『弘道館記述義』を、そして会沢正志斎には年少者向けの『退食閒話』を著すよう依頼するのです。『退食閒話』は、天保十三年に成りました。

さて、弘道館の建設工事は天保十一年に開始され、翌天保十二年七月十五日に主要な建物が竣工しました。

約五万四千七十余坪(約十七万八千四百平方メートル)という他藩の学校に数倍する構地に、正庁、文館、武館、医学館、天文台、寮舎、馬術・射撃訓練場が造られました。

仮開館式は、同年八月に行われました。雨天にもかかわらず、藩士達はもちろん、領内の郷士や神職者に至るまで、出席した者の数は三千余人を数えたと言います。

開館式において、まず總教の青山延子が『日本書紀(神代巻)』の講義をし、同じく会沢正志斎が『孝経(首章)』を講義しました。

本開館式は、鹿島神宮から弘道館鹿島神社への分祀勧請許可を待ち、安政四(一八五七)年五月に行われました。この間、東湖は逆境の中で、弘化四(一八四七)年九月に『弘道館記述義』を完成させるのです。