志士たちを鼓舞した死生一貫の説(『月刊日本』平成27年6月号)

西郷南洲と『洗心洞箚記』

洗心洞箚記③明治十二年春、頭山満は、後に玄洋社に発展する向陽社を設立しました。その年の暮れ、彼は西南戦争で斃れた西郷南洲の霊を弔うため、同志四人とともに福岡から鹿児島に向かいました。無一文だった彼らは徒歩の旅を続けました。鹿児島に到着するや、まず南洲の故宅を訪れました。すると、沖永良部島時代からの南洲の盟友で、南洲の遺族の世話をしていた川口雪篷が出迎えてくれました。

実は、川口は生き延びた大塩中斎ではないか、あるいはその養子格之助ではないか、とも噂された人物です。

こうした噂が絶えなかったのは、大塩生存伝説があったからです。五月号に書いた通り、天保八(一八三七)年二月に蹶起した大塩は、逃亡の末、三月二十七日に居場所を突き止められ、最期は火を放って格之助とともに自決しました。ところが、大塩の遺体は黒こげになっていて、誰なのか断定できない状態だったのです。さらに気になる情報があります。大塩の逃亡を手助けした秋篠昭足の墓の碑文に次のように書かれていることです。

「秋篠氏は平八郎の縁者で、天保八年の乱の謀議にも参加し、乱の後、平八郎および其の徒十二人とともに河内に逃れ、その後、大塩父子ほか五人は海伝いに天草島に潜伏後、清国に逃れ、大塩父子は更にヨーロッパに渡った」

大塩生存伝説は、頭山が川口を訪れた明治時代にも、さらに大正、昭和になってからも唱えられ続けていたのです。いずれにせよ、川口がただ者ではなかったことは、頭山が受けた印象からもうかがえます。

「もう七十歳くらいの老人で、白髪頭で、かなり太っていて、威厳のある人だった。豪傑肌の男で、厳重な、威力のある、堂々たる風采で、西郷夫人でも叱る勢いじゃった」

さて、頭山と対面した川口は次のように語りました。

「鹿児島は今や禿山となった。先年までは天下有用の材が茂っていたが、悉く伐り倒された。今から苗を植え付けても容易に大木とはならない。わけても西郷ほどの大木は百年に一本、千年に一本出るか出ないかだ」

これを聞いてもなお、「南洲の精神はどこかに残っているだろう」と迫る頭山に対して、川口が示したものこそ、南洲が愛読していた『洗心洞箚記』だったのです。南洲が何度も繰り返して読んだものと見え、擦れ切れた部分さえありました。南洲による書き入れもありました。

頭山はまた、丁重に掛けられていた大塩の書幅を見逃しませんでした。南洲は簡素な生活を旨とし、決して華美を追求しませんでした。ところが、大塩の書幅の表装だけは驚くほど立派なものだったのです。実は、南洲がこの書幅を手に入れるまでには、曲折がありました。この書幅はもともと、大塩を崇拝していた、京都の医者が所有していたものです。南洲は、それを知ってこの医者を訪ね、なんとかそれを譲り受けようとしましたが、どうしてもその医者はウンとは言わなかったのです。

ところが、それからしばらくしたある日、南洲家に一通の封書とともにその書幅が送られてきたのです。その封書はその医師の遺言でした。

「私が生存中、この大塩先生の軸を珍重するものは、天下広しといえども、私に及ぶものはあるまい。しかし、私が寄る年波と共に歿したならば、この軸を愛し、かつ敬するものは、足下(南洲)より外にないと思う。よって謹んで足下にこの軸を謹呈するから収めてくれ」

頭山は、南洲がいかに深く大塩に傾倒していたかを思い知ったことでしょう。『王陽明研究』を著した桑原天泉は、南洲について「此千載第一人の大霊格、英雄の気胆と哲人の高風とを兼ね具得したる大本領に至ては固とより其天品に成るの少しとせざるも、禅の大観と王学の工夫とに依れるの否み難く、一面より見て、南洲の人格は、王禅両道の圓現也と称するも過言にあらず」と評しています。

南洲は、佐藤一斎の「言志四録」(『言志録』、『言志後禄』、『言志晩禄』、『言志耋禄』)から百一条を選び、常に手元に置いていました。南洲は嘉永三(一八五〇)年~四年頃、一斉の弟子の荒川元に師事した伊東猛右衛門(祐之)に入門しています。祐之は内外の陽明学の先人の言行、著述などを収録した『餘姚学苑』を遺しています。

『大西郷遺訓』には、「道を行ふものは、天下挙て之れを毀るも、意とするに足らず、天下挙て之を誉むるも、以て足れりとせざるは、自ら信ずるの厚きが故なり」とあります。この一節は、王陽明の『伝習録』にある次の言葉を想起させます。

「誹膀が外からやってくるものであるかぎり、いかに聖人であろうと、まぬかれようがない。人はただ自らを修めることこそを尊ぶべきである。もし自己がまごうことなく聖賢たりえたなら、たとえ人がどのように毀ろうと、関知するところではあるまい」(溝口雄三氏訳、下五十五条)

頭山満と『洗心洞箚記』

さて、川口から見せられた南洲の『洗心洞箚記』は、頭山にとっては是非とも読んでみたい書物だったはずです。そこで頭山は、川口の許可なく、その『洗心洞箚記』を持ち帰ってしまったのです。東京に戻った頭山は、東北漫遊に出ました。その間も、頭山は『洗心洞箚記』を風呂敷包みに入れて離すことがありませんでした。

頭山が東北から戻ると、中島翔が非常に心配して、「川口雪篷が非常な怒り方じゃ」と言ってきました。中島が言うには、頭山が無断で『洗心洞箚記』を持ってきたせいで、その後川口を訪れた筑前人たちは、川口からひどく叱られていて、川口は「頭山には腹を切らせる」と言って憤っているとのことでした。すると頭山は、もっと憤るようにしてやろうと言って、「『洗心洞箚記』を見せてもらったが、あれは表紙を見るためではなく、熟読するためのものだ。貸したのなら、黙って貸しっぷりをよくして見ていたらよかろう」との趣旨の手紙を川口に送ったのです。

結局、翌年頭山は川口を再び訪れましたが、『洗心洞箚記』のことは話に出さず、川口に書を依頼し、三時間も話し込んだといいます。川口は機嫌よく接し、最期に頭山は懐に入れていた『洗心洞箚記』を川口に返しました。川口は、この『洗心洞箚記』は自分のものではなく、自分が預かっていたものだから、返却を催促してしまったのだと、逆に詫びたといいます。

頭山が『洗心洞箚記』を終生愛読していたことは、『巨人頭山満翁』を著した藤本尚則が、晩年の頭山を訪ねたときにも示されました。東亜の問題に話が及ぶと、頭山は、『洗心洞箚記』上十一条にある「他人の災難を救うとき、自分の心に波立ちがあるかどうかを調べてみよ。ごくわずかの波立ちでもあれば、もはや情欲があるということなのだ。天体(天に通ずる真心)でないのである。(心が)天体でなければ、救わない方がましだ」を引き、次のように語ったといいます。

「真に亜細亜共存の大義から支那を助けるといふのであれば、仮令支那が日本の厚意に対して忘恩の行為ありとするも、我は我だけの心を尽したものとして、愚痴などはいはぬものぢや。愚痴をいふ了見では、初めから他を世話する資格はない」

もちろん、頭山の思想は『洗心洞箚記』によってのみ培われたものではありません。しかし、頭山の生き様は、大塩が到達した心境と同質のものに支えられていたことが窺われます。

 死の淵をさまよう体験

大塩が到達した心境は、遭難によって死の淵をさまようことによって培われたものでした。遭難体験は大塩だけではなく、大塩が先生として仰いだ程伊川にも、そして南洲にも頭山にもありました。大塩は『洗心洞箚記』下百三条で、程伊川の体験を書いています。

程伊川は紹聖四(一〇九七)年に涪州に流されることになりました。そして揚子江を渡ろうとしたとき、中流で船が転覆しかけたのです。船中の人々は恐怖のあまり、みな泣き叫びました。ところが、程伊川はひとり襟を正して安坐し、いつもと全く変わらない平静を保つことができたのです。

大塩は、程伊川のこの体験を描写した上で、自らの遭難体験を紹介しています。

天保三(一八三二)年六月、江州へ赴き、中江藤樹の墓に詣でるため、船で西近江の比良嶽の北にある小川村を訪れました。大塩は大溝港口で船をやとい、門人ら三名とともに、坂本に向かって帰路につきました。出発したときは、晴れていて波は静かでした。ところが、小松の近くまで来たところで、北風が急に強まってきたのです。大塩は次のように描写しています。

「湖を囲む四方の山々が、うなり声を挙げ、狂瀾逆浪は、あるいは百千の怒馬が陣地を突きやぶるがごとく、あるいは幾尋もの雪の山が目の前で崩れるかのごとくである」

さらに危険な状況に陥り、舟子は大声で「他の舟はみな、きざしを察知したので避難した。私だけが誤って予知できず、こういうことになってしまった。ああ運命なのだろう。けれどもお客に対してだけは面目ない」と言いました。大塩はこのときの状況を次のように書き残しています。

〈門人も下男も、すでに悪酒に酔ったように頭が痛み眼がくらみ、心中では船が転覆して溺死するのを心配しているようだ。私自身も、これは本当に死ぬんだと思った。それで、憂悔危懼の念が起こらないというわけにはいかなかった。

そのとき、たちまち、藤樹書院で作った詩の「人の此の知を致す無し」の句を思いだし、心と口とでこもごもこう言った、“この句は、良知を致さない人を責めたのに、私自身が憂悔危懼の念を起こしてしまった。もし自分自身を責めることをしなければ、自分には少ししか期待しないで、反対に他人にはいっぱい要求することになる。これでは恕でない。日頃学んだことはいったいどうなったのだ”と。

すぐに良知を呼び起こした。そうすると、伊川先生の「誠・敬を存す」の言葉が、すぐに思い出された。そこで、ゆれ動いている中にきっちりと坐った。すると伊川・陽明両先生と向かいあっているようで、「主一無適」の境地になり、自分を超越してしまった。まして狂濯逆浪など少しも気にならない。それだから、憂悔危懼の念は、雪に湯をかけたように消え失せて痕も残らなかった。

それから、凝然として動かないでいると、大風も自然にやみ、おだやかな風が前どおりに船を送って、とうとう西岸の坂本に着いた。これは、天命ではなかったろうか〉

「主一無適」とは、程伊川が、「敬」(心のうちに深くつつしむ)を定義した言葉で、事に当たってはその一事に精神を集中統一して、他に散らさないことです。

ここで想起すべきが、死生一貫の説に到達した王陽明自身の体験です。明の武宗時代の正徳元(一五〇六)年、皇帝側近の劉瑾という宦官の跋扈に対して、戴銑らが改革の上奏文を出しました。ところが、劉瑾は彼らを処罰したのです。このとき陽明は戴銑らの解放を訴えましたが、陽明は劉瑾の怒りを買い、四十回の杖刑に処せられた上、貴州省の竜場駅(宿駅)の長に左遷されることになったのです。

陽明は、龍場に向かう途中にも、そして赴任後も命を狙われました。亘理章三郎は、このとき陽明は 『孟子』盡心章句上にある「殀寿(天命)貳わず、身を脩めて以て之れを俟つは、命を立つる所以なり」という教義を、言語や理屈で解釈したのではなく、身をもって体認したのだと説いています。

もともと、『論語』衛霊公篇に、「子曰く、志士仁人は、生を求めて以って仁を害すること無く、身を殺して以って仁を成すこと有り」とあるように、儒学には生命よりも仁を優先する考え方がありましたが、陽明は「誠」や「仁」が、生死の問題よりも優先すると説くに至るのです。高瀬武次郎は、『日本の陽明学』において次のように指摘しています。

「死生一貫の説は陽明子に至て其極に達した……(中江)藤樹は一死一生を以て一氷一釈、水は依然たるに比し……又(熊沢)蕃山は……詳密に死生一貫を説けり。陽明学者が千里万馬の間に、馳突激闘して、泰然として迫まらざるもの多きは、……又困難に処するも、従容として楽天主義を取れるは、常に其生死の間に疑なきが為なり」

確たる死生観と皇統守護の実践

死生一貫の考え方は、大塩の思想において重い位置を占めています。『洗心洞箚記』「私家版への序」で大塩は次のように書いています。

〈私の議論は、五つの問題において、世間の通念と合わないのである。五つとは、一に「太虚」の説、二に「致良知」の説、三に「気質を変化す」の説、四に「死生を一にす」の説、五に「虚偽を去る」の説、これである。〉

大塩は『洗心洞箚記』では、「聖賢は、天坤が無窮だとみなすだけでなく、自分をもまた天地と同じだとみなす。そこで、身体が死ぬのを恨まず心が死ぬのを恨む。心が死ななければ、天地と無窮を争うのである」(上百六十二条)と書いています。また、同書上十九条には以下のようにあります。

〈「生を求めて以って仁を害すること無し」といわれている。生には滅亡ということがあるが、仁は太虚の徳だから、永遠に不滅である。永遠に不滅であるものをさしおいて滅亡ということがあるものを大切にするのは、迷いである。それゆえ、志士仁人は、生をさしおいて仁を選びとる、とされているのは、本当に理にかなったことだ。しかし、常人にはわからないことなのである〉

その思想形成が死の淵をさまよう体験と結びついていた点では、南洲も同様です。

安政五(一八五八)年から始まった安政の大獄で、尊攘派の僧侶、月照は追われる身となり、薩摩藩に逃れました。ところが、藩主斉彬の没後、藩の重臣は月照の亡命を迷惑に思うようになり、月照に退去を命じたばかりか、南洲に対して月照を斬り捨てよと命じたのです。ここに至り、南洲は月照とともに死ぬことを覚悟し、錦江湾に投身したのです。月照は亡くなりました。しかし、南洲は奇跡的に蘇生したのです。

文久二(一八六二)年六月、南洲は再び苦境に立たされます。島津久光に背いて徳之島に流され、さらに閏八月に沖永良部島に移され、幽閉されたのです。二坪程度の牢屋は便所と居屋があるだけで、四方は壁もなくただ粗い格子をめぐらしているだけでした。風雨は容赦なく牢屋を襲い、南洲を苦しめました。いつ獄死してもおかしくないような状況です。しかも、いつ切腹になるかもしれなかったのです。

沖永良部島時代に南洲が島民に認めた「死生の説」には「生死ノ間、落着出来ズシテハ、天性ト云フコト相分ラズ」とあります。これを解説した頭山満は、「流石は南洲先生ぢやのう。生死の岸頭に立つて、この大決心がついてをつたればこそ、あのやうな立派な一生が送られたのぢやらう。生死の見きはめ、こゝが人間の一番大切な学問で、これさへ出来てをれば、他のことは刄をむかへずして解決が出来るといふものぢや」と語っています。

また、『大西郷遺訓』には「生命も要らず、名も要らず、官位も金も要らぬ人は、御し難きものなり。然れども此御し難き人に非ざれば、艱難を共にして国家の大業を計る可からず」とあります。桑原天泉はこの一節について、「翁の信念進退は、如実に此境涯を実現し、其一挙一動の全く死生外に解脱し、大久保、木戸と類を異にしたるもの、全く、其哲人的涵養の力に待つの多大。而して箇中の実修工夫は、実に絶島幽囚の賜物たりし也。死生患難を超脱せる、翁の如きは誠に古今に稀れなる処」と書いています。

頭山満もまた、十一歳のときに、溺れかけて死の淵をさまようという体験をし、やがて『洗心洞箚記』から影響を受ける中で、大塩と同様の心境に達していたように見えます。

大正十年秋、後に五・一五事件に連座する本間憲一郎は、頭山のお伴をして、水戸の那珂川で鮭漁を楽しんでいました。船頭が一尾でも多く獲ろうと、焦り始めたときです。川の中流で船が橋に激突、その衝撃で船は大きく揺れ、船中の人は皆横倒しになりました。そのとき、頭山は冬外套を着て、両手をふところにしていました。本間は咄嗟に頭山の身を案じました。川の流れは深くて速い。転覆すれば命に関わります。

ところが、本間が頭山を見ると、頭から水飛沫を被ったにもかかわらず、ふところ手にしたまま、眉毛一つ動かさず悠然としています。驚きもせず、慌てもせず、いつもの温顔を漂わせていたのです。本間は、このときの頭山の様子は、大塩が書いた「主一無適」の境地に達していたと信じていると書いています。

「主一無適」の境地は、程伊川、大塩、南洲、頭山に共通するように見えます。死の淵をさまよう体験によって到達した境地と密接に結びつく形で、彼らの不動心と死生観は形成されてきたのです。

幕末の志士たちの行動は、確かに陽明学の死生一貫の説に支えられていた部分があるように見えます。しかし、皇統守護という使命と一体のものとして死生一貫の説を唱えてきたのは、山崎闇斎にはじまる崎門学でした。闇斎の神道書には、日之少宮に生まれ日之少宮に帰るという死生一貫の考え方が示されており、また崎門の若林強斎は『神道大意』において次のように書いています。

「あの天の神より下された面々のこの御霊は、死生存亡の隔てはないゆえ、この大事のものを、即今、忠義の身となして、君父に背き奉らぬ様に其なりにどこまでも八百万神の下座につらなり、君上を護り国土を鎮むる神霊となる様にと云より外、志はないぞ。じゃによって、死生の間に頓着はない」(原文はカタカナ)

楠公が遺した言葉に「カリニモ君ヲ怨ミ奉ルノ心発ラバ、天照大神ノ御名ヲ唱フベシ」とあることを知った強斎は、わが国臣子の目当てはこの一語以外に尽きると確信し、自らの書斎を「望楠」と命名しましたが、「君国を無窮に守護し、死してもなお已まず、八百万神の下座につらなる」とは、まさに楠公精神の体現にほかなりません。そして、天皇に対する忠が、やむにやまれぬ至情、つまり繾綣惻怛の心となってこそ、死生一貫が得られるという考え方こそが重要なのです。西郷南洲、吉田松陰、頭山満らの先覚者は、陽明学とともに、この重要性を崎門の学から学んでいたとも考えられます。

沖永良部島幽閉当時、「生死何ぞ疑わん、天の付与なるを 願くは魂魄を留めて、皇城を護らん」と詠んだ南洲は、楠公を崇拝し、崎門の学も学んでいたと考えられます。中山広司氏は、造士館においては天保以来、明治維新に至るまで一貫して闇斎学を奉じていたと指摘し、南洲が浅見絅斎の『靖献遺言』を学んでいたと思われると書いています。

処刑を前に「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも 留めおかまし大和魂」と詠んだ吉田松陰もまた、『洗心洞箚記』を読む一方、『靖献遺言』に傾倒していました。

終生『洗心洞箚記』を読んでいた頭山満もまた、若き日に、男装の女傑、高場乱から『靖献遺言』の講義を受けていました。

繾綣惻怛の心と皇統守護の任の自覚において、崎門学が果たした役割は絶大でした。同時に、死生利害を超えて行動しようとする志士たちを鼓舞する上で、大塩の思想と行動が果たした役割も決して小さくはなかったと思います。

次回から藤田東湖『弘道館記述義』に移ります。