「漢文のふり」を一掃しようとした宣長(『月刊日本』平成25年12月号)

漢字で日本語を表現しようとした日本人の努力

 直毘霊②漢字の流入以前に日本人が独自の文字を持っていなかったと考えていた本居宣長にとって、日本語表記の確立は、まさにわが国のアイデンティティに関わる重大問題でした。

 「大御国にもと文字はなかりしかば、上ツ代の古事どもも何も、直に人の口に言ヒ伝へ、耳に聴伝はり来ぬるを、やゝ後に、外国より書籍と云フ物渡リ参来て、其を此間の言もて読ミならひ、その義理をもわきまへさとりてぞ、其ノ文字を用ひ、その書籍の語を借て、此間の事をも書記すことにはなりぬる」

 この宣長の言葉を引いて、小林秀雄は、書籍という物が渡ってきてから数百年間、私達現代人は、何とかして漢字で日本語を表現しようとした上代日本人の努力、悪戦苦闘と言っていいような経験を想い描こうとはせず、想い描こうとしても、そんな力をほとんど失ってしまったと書き、次のように続けました。

 〈これを想ひ描くといふ事が、宣長にとつては、「古事記伝」を書くといふその事であつた。彼は、上代人のこの言語経験が、上代文化の本質を成し、その最も豊かな鮮明な産物が「古事記」であると見てゐた。その複雑な「文体」を分析して、その「訓法」を判定する仕事は、上代人の努力の内部に入込む道を行って、上代文化に直かに推参するといふ事に他ならない、さう考へられてゐた〉

 小林のいう上代日本人の努力とは何かを、ここで大島正二氏の『漢字伝来』にしたがって見ておきたいと思います。

 漢字が伝わった後、まず漢字に備わる意味を捨てて、その「音」だけを借りて日本語を写す「仮借」の導入が始まります。一方、遅くとも六世紀初頭には、漢字の意味に対応する日本語を固定する「訓」が成立します。そして、奈良時代末には、漢文訓読に伴う符号(返り点・送り仮名など)を記入する方法が採用されます。

 平安初期の頃、〈てにをは〉のうち、基本的な助詞を音仮名ではなく、漢字の四隅や四辺などにほどこした小さな点(星点)や符号(ヲコト点)で示すことが行われるようになります。和辻哲郎は〈てにをは〉が名詞、形容詞、代名詞などの他語に対する関係を示すのみならず、あらゆる種類の語及び文章の中間にあって両者を連絡させ、意味の強調、濃淡づけ、情意上の繊細な区別、方向の指示といった役をつとめると指摘し、次のように述べています。

 「て、に、を、は、のほかに、こと、と、む、の、す、か、というごとき諸語を表示する点によって、漢語の一々に日本語的な性格を与えた時、漢文は日本語的に読み得るものとなったのである」

 この間、七世紀後半頃から、「訓読」を前提とした方法で、日本語そのものを写すスタイルが登場しました。その文は漢字で綴られていても、文章としては全く漢文ではありません。このような日本語文を亀井孝は「漢字文」と呼んでいます。

 例えば、天皇と聖徳太子が法隆寺と薬師如来像をつくるにいたった経過が記されている法隆寺金堂の「薬師如来座像光背銘」は、漢文の統語法(文法的規則)と日本語の統語法が混然としています。この銘文では、「大御身」「労賜」「仕奉」のような日本語の敬語表記が見られます。また、「造寺」が漢文的(動詞「造る」+目的語「寺(を)」であるのに対し、銘文にある「薬師像作」は日本語式に、目的語「楽師像(を)」+動詞「作る」と表されています。これについて、大島氏は「規則正しい漢文から脱して日本語を写そうとする意図の反映と理解してよいのではないだろうか」と評しています。

 やがて、このような「漢字文」の中に、漢文の統語法を完全に捨てて、全く日本語の統語法にしたがって漢字を並べるものも現れます。これは、「史部流」と呼ばれています。その典型として、天武十(六八一)年の「山ノ上碑」(群馬県高崎市山名町)が挙げられます。建立者の長利僧が、自らの系譜者である母の黒売刀自を中心に一文を記したものです。

[原文] 辛巳歳集月三日記/佐野三家定賜健守命孫黒賣刀自。此新川臣児斯多々弥足尼孫大児臣娶生児長利僧。母為記定文也。放光寺僧。

[読み下し] 辛巳ノ歳、集月三日記ス/佐野ノ三家ヲ定メ賜ヘル健宮ノ命ノ孫、黒賣ノ刀自、此ノ新川ノ臣ノ児、斯多多弥足尼ノ孫、大児臣ニ娶ギテ生メル児、長利僧、母ノ為メニ記シ定ムル文也。放光寺ノ僧。

 大島氏は、漢文の統語法を全く無視して日本語の順序にしたがったこのスタイルは、漢文という方式から離れ、漢字をただの表記の道具として日本語文を綴るという方式で成功している点が注目されると書いています。

 また、七世紀末には、勅命を伝える宣命や、神を祭る祝詞に用いられたいわゆる宣命書きが成立していたと考えられています。この形式について、日本語学の林史典氏は「原則的には日本語の語順によりながら、活用語尾・付属語の類を小書きにして文法形態までを示す方式がとられており、したがって語形の表示もいっそう確実で、それだけなまのことばをそのままのかたちでしるすのにふさわしい方法であるといえるわけである」と書いています。

 さて、『古事記』は、天武天皇の勅命で稗田阿礼が誦習した帝紀や先代旧辞を、元明天皇の命で太安万侶が文章に記録し、和銅五(七一二)年に献進したものです。

 安万侶は、右に述べてきた先人の努力を受けて、独自の日本語表記を固めていったのです。安万侶が元明天皇に奉った上表文には、その編集方針について次のように述べられています。

 「上古においては、言葉も、またそれによって表される意味も飾り気がなく、漢字を用いてどのように文章化したらよいか、困難なことがある。すべて漢字の〈訓〉を用いて記述すると、文章が真意をじゅうぶんに表現できない場合があり、またすべて漢字の〈音〉だけを用いて記述すると長くなって意味がとりにくくなる。この際、ある場合は一句のなかに音と訓とを交えて用い、ある場合は一つの事柄を記すのに、すべて訓を用いて書くこととする」(大島正一氏訳)

 安万侶は苦心の末に、「音訓交用」という日本語表記に辿りついたのでした。

「古語のふり」を求めた宣長

 では、なぜ『古事記』は宣長にとって特別なものだったのでしょう。

 天武天皇は、阿礼に命じて「帝紀」のみならず「勅語ノ旧事」を「誦習」させたとあります。『古事記』の表現では、天武は阿礼をして「まづ人の口に熟誦ならはしめて後に、其ノ言の随に書録」させようとしたと書かれています。

 西澤一光氏は、天武天皇が阿礼を起用して漢文体の記録をよみならわさせた当時は、まだ口語のなかに「古言」が残っていて、天武天皇は、漢文の記録を阿礼のその言語感覚を通過させることによって、「漢文」から「古語」「古言」への誦みかえを一貫した水準で遂行できたのだと、宣長は考えていると説明しています。

 宣長が『古事記』を読むために心掛けたのは、口誦の古語、つまりわが国固有の「やまとことば」を訓み出すことにほかなりません。『古事記伝』巻之一「訓法の事」には、そのための方法論が示されています。

 ここで、宣長は既存の訓読文のスタイルである「漢文のふり」に対して、「古語のふり」を求めたのです。そして、彼は『古事記』『日本書紀』に載る歌謡の表記や『万葉集』の歌の表記、『続日本紀』の宣命や『延喜式』の祝詞などを手本にして「古語のふり」に習熟することが必要だと説いたのでした。

 ただ、誰もが簡単に「古語のふり」を取り戻せるわけではありません。長年にわたって『古事記』と向き合った体験こそが、宣長に「古語のふり」を体得させたのでしょう。笹月清美は『本居宣長の研究』において、次のように書いています。

 〈古事記自体すなはち口誦態は漢文風表記によつて覆はれ表記態として存してゐる。それを訓みあらはすのが訓読に外ならぬ。さて宣長をこの訓において導いたものは体験的に把握された古事記の内的生命、文字の底に流動してゐる生命そのものであつた。その生命に必然の言葉のみが表記の不完全な或いは表記の缺如してゐる部分の意味を充たし得たのであつた。換言すれば古事記自体の生命はその缺損された部分において、みづからに必然の、何ものをもつても代へ得ない言葉を求め、みづからを実現しようとしてゐるのである〉

 宣長は、漢文的な言い方、書き方だけではなく、漢文的な考え方をも包括して「漢文のふり」といいました。

 彼は、「おほかた平城のころまでは、世の人古語のふりをよくしり、又当時の言も、なほ古かりける故に、漢文訓みとの差別は、おのづからよく弁へたりしを、後の世は只漢籍にのみ眼なれ、其の読みにのみ耳馴れたる癖の著きては、大かたの語のさま、其の漢のふりと此方のふりとを、え弁へず……。此のたがひをよく弁へて、漢のふりの厠らぬ、清らかなる古語を求めて訓むべし」と書いています。

 宣長は、漢の制度や文化を積極的に摂取した奈良朝以後、「漢文のふり」がわが国の上流知識層を支配するようになったととらえていたのです。そして彼は、漢字支配から脱するには、まず漢字が「仮の物」だと認識すべきだと説きました。この宣長の姿勢は、『古事記』の訓み方に如実に示されています。

 『古事記』本文冒頭の「天地之初発之時、於高天原成神名……」を、伊勢神道系の神道家度会廷佳は次のように訓んでいました。

 「天地の初めて発くるの時、高天原に成る神の名は、天之御中主神。次に高産巣日神。次に神産巣日神。此三柱の神は、並に独神成り坐して、身を隠します。」

 これに対して、宣長は次のように訓んだのです。

 「天地の初発の時、高天原に成りませる神の名は、天之御中主神。次に高産巣日神。次に神産巣日神。此三柱の神は、並独神成り坐て、身を隠したまひき。」

 宣長によれば、まず「あめつち」という「やまとことば」があり、その意味の類似から漢字「天地」が表記上当てられたのであって、漢字「天地」は仮り字的表記に過ぎないということになります。漢字「天地」の意味に支配されては、中国的な天地観や宇宙観に左右されることになるということです。

 宣長は、「天地は、阿米都地の漢字にして、天は阿米なり、かくて阿米てふ名義は、未ダ思ヒ得ず、抑諸の言の、然云本の意を釋は、甚難きわざなるを、強て解むとすれば、必僻める説の出来るものなり」と説き、さらに次のように漢意に基づいた解釈を批判します。

 「漢籍にいはゆる天とは、甚く異なる物ぞ、ゆめ彼ノ國書の説に惑ひて、正しき神代を勿説曲そ、凡て外国には、正しき古ヘノ傳ヘ説の無き故に、天の実のさまをば得知らずて、たゞおしはかりの空理をのみいふなり」

 また、「初発之時」について、「波自米能登伎」と訓むべしと説き、「初発を、ハジメテヒラクルと訓るはひがことなり、其はいはゆる開闢の意に思ひ混へつる物ぞ、抑天地のひらくと云フは、漢籍言にして、此間の古言に非ず」と説いています。

 このように、宣長は漢字を借り物とみなしました。ところが、子安宣邦氏は『漢字論』において、こうした宣長の漢字観と、山田孝雄に代表される国語学者の主張に言及して、近代の国語学者が異質的他者としての漢字に反発しながら、漢字の受容基盤に固有言語を歴史のうちに幻想的に存立させていったと指摘しました。そして、子安氏は、それが閉ざされた内部的な自己をしか生み出さないと説き、次のように結論づけました。

 「あらゆる自然言語に他言語を前提にしない純粋な自然語などはありえない。純粋言語とは比較言語学が構成する祖語のような人工言語的な抽象である。…漢字とは日本語にとって不可避の他者である。それは自言語がたえず外部に開かれていくことを可能にする言語的契機としての他者である」

 「やまとことば」を求めようとして努力を続けた宣長は確かに偉大ですが、その漢意批判は、その後の日本人の中国観に強い影響を与えたわけであり、負の側面も指摘されています。

 「本居宣長の漢意排斥の言説は、少なからずファナティックなものであるが、それは日本文化への漢意の浸透度が骨がらみのもので、容易にはこれを拭い去れないことの反映にほかならない。それは、どこか、反抗期の少年の親に対する態度に似ている。

 そして、現代における嫌中ナショナリズムの論者達の言説は、国学派によるこうしたファナティックな漢意排斥の言説を、結果として、忠実に反復している」(ホームページ 卯山人「環境・人間社会・文明」)

『古事記』と『日本書紀』の評価を逆転させた宣長

 ところで、宣長以前の国体論において重視されてきたのは、『日本書紀』です。『日本書紀』はまさに「吾国の亀鑑たるべき書」として成立し、そうであり続けてきました。『日本書紀』が重視されたのは、国体に関わる深遠な意味を読み解くことができるからです。

 しかし、宣長は、そのテキストがどれだけ古言・古語に忠実かという基準を設けて、『古事記』と『日本書紀』の評価を劇的に逆転させたのでした。

 「書紀は、後ノ代の意をもて、上ツ代の事を記し、漢国の言を以テ、皇国の意を記されたる故に、あひかなはざること多かる」と書いた通り、宣長は、『書紀』が後代の心をもって上代の事をしるし、漢国の言葉をもって皇国の心をしるしたのに対して、『古事記』は少しも「さかしら」を加えず、古から言い伝えたままにしるしたのであるから、書かれていることはみな上代のまことだとしました。さらに、『直毘霊』で、次のように『日本書紀』を編纂した舎人親王を批判しています。

 「故舎人親王を始め奉リて、世々の識者ども、道の意をえとらへす、たゞかの道々しきことこちたく云る、から書の説のみ、心の底にしみ着て、其を天地のおのづからなる理と思ヒ居る故に、すがるとは思はねども、おのづからそれにまつはれて、彼方へのみ流れゆくめり」

 大東亜戦争開戦の年、後に東洋大学学長を務める橋本増吉は『神典と日本精神』を著し、宣長同様に『日本書紀』に漢籍の思想が混入している問題点を明確に指摘しました。『日本書紀』冒頭の「古、天地未だ剖れず、陰陽分れずあるとき、渾沌たること鶏子の如く、溟涬りて牙を含めり。其の清み陽なる者は、薄靡きて天と爲り、重く濁れる者は、淹滞きて地と爲るに及びて、精しく妙なるが合へるは摶ぎ易く、重く濁れるが凝りたるは竭り難し。故れ天先づ成りて地後に定まる」が、『淮南子』天文訓や徐整の『三五歴記』の文句をそのまま転用していると。さらに橋本は、文字を借りただけではなく、思想までもそのまま借りていると書いています。

 だが、橋本は『古事記』に外来思想の影響が存在しないわけではないとも書いています。

 斎藤英喜氏が指摘しているように、宣長は『日本書記』の陰陽説を否定しながら、その発想を応用して『古事記』から天地創造の過程を読み取とろうとしました。浮いた脂のように国が漂っているときに、葦の牙のように萌えあがっていく物によって、アシカビヒコヂの神が誕生するという『古事記』の場面から、「浮脂の如く漂蕩へりし物」とは、天地未分化の状態、つまり「一に淆りて沌かれる」物を指すと注釈し、そこから「萌騰りて天となり、地となるべき物は、遺り留りて、後に地となった」と説いていきます。その混沌から天地を分割するエネルギーが産巣日神の「ムスヒ」であるとしたのです。

 さらに重要な問題は、『日本書紀』のみが伝え、『古事記』が伝えない重大な事実があることです。例えば、神武天皇肇国の詔勅です。ここには肇国の理想である「八紘為宇」(「八紘一宇」)の精神がはっきり示されています。

 「……苟も民に利有らば、何にぞ聖造に妨はむ。且当に山林を披払ひ、宮室を経営りて、恭みて宝位に臨み、以て元元を鎮め、上は則ち乾霊の国を授けたまひし德に答へ、下は則ち皇孫の正を養ひたまひし心を弘むべし。然る後に、六合を兼ねて都を開き、八紘を掩ひて宇と為むこと、亦可からず乎……」

 「六合」は上下四方、「八紘」は全世界の意味です。神意が日本国内で実現したならば、国外に向っても、この真理と正義を広めて、人類全体を家族とすべきだという考え方です。橋本は「六合」、「八紘」が『淮南子』地形訓にある語句によっていると指摘しつつも、「八紘為宇」の思想が、中国文化の影響であると考えるべきではないとし、「所謂八紘一宇の精紳は、実に我が神話その者の精神をば、支那の文字、支那の言語を假りて表現せしものと、認めなければならない」、「八紘一宇の精神は……我が民族が古来真に著々としてこれを実行し、実現し来れるものなること、史上著名なる事実である」と説いています。つまり、橋本の立場は『日本書記』の一部に中国思想の借用があったとしても、『日本書記』の価値を過小評価してはならないというものです。

「直毘霊論争」へ

 ここで想起されるのが、山崎闇斎に始まる垂加派の姿勢です。浅見絅斎が闇斎の講義をまとめた『神代記垂加翁講義』以来、『日本書紀』神代巻を重視するのが垂加派の一貫した姿勢です。松本丘氏が指摘しているように、『神代記垂加翁講義』には「儒書にどう云うてあろうと、何と云うことはない。日本の神代の道ぞ。今日の前にきっかりと見えてあることぞ」との言葉が記されています。

 また、垂加派の玉木正英の『神代巻藻塩草』は、天地開闢とともに一貫している皇統を主として他を混えぬ「帝王の実録」たる点に『日本書紀』の価値があるとしています。

 そして、垂加派は、神代巻には「道」が存するが、それは「道」を説こうとして書かれているのではなく、神々の事跡に自ら示されていると考えたのです。松本丘氏はまた、竹内式部の『日本書紀第一講義』に、「道ト云モノガ高フ求メルコトデナイ。直ニ其物ニ付テ道ヲ学ト云ガ目ノ付処、今此神代巻上古伊弉諾・伊弉冊・日ノ神様ノ時ノコトヲ少モヱシヤクセズ書紀シテヲイタ書ジヤ。ジヤニヨツテ其書紀シテ有処ノ有ノ侭ノ処ニ尋テミレバ道ガ有筈」とあることを指摘しています。

 宣長は一方的に『古事記』に軍配を上げたわけですが、改めて橋本の次の言葉に耳を傾けたいと思います。

 「古事記と日本書紀との両書は共に相並んで、我が国体の基礎をなす、我が古代文化を闡明する上に於て、また我が固有の思想精神を確知する上に於て、最も貴重なる文献なることは、もとより他言を要せざるところである」

 宣長の問題提起は、『日本書紀』によって国体を把握してきた儒者や神道家たちに強い衝撃を与え、時に激しい反発を生みました。

 そして、中国の歴史や聖人の道をどう評価するか、神話に「教え」を読みとるべきか否かなどをめぐり、宣長と儒学者との間で激しい論争が展開されていったのです。次回は、この「直毘霊論争」を見ていくことにします。