朱子の士気に学んだ大塩中斎(『月刊日本』平成27年5月号)

朱子の修養「居敬究理」

洗心洞箚記②井上哲次郎は明治三十三年に著した『日本陽明学派之哲学』において、朱子学はよく博学多識の士を出したが、ともすると人を固陋迂腐にさせる弊があると断じました。「固陋」とは「古い習慣や考えに固執して、新しいものを好まないこと」、「迂腐」とは「世事に疎く、役に立たないこと」です。

朱子学の欠点を指摘した井上は、陽明学について、浅薄のそしりを免れないが、学者を単刀直入、正鵠を得させる点にいたっては朱子学に優ると説きました。そして、陽明学派には固陋迂腐というべき人物はほとんどいないとし、その行為に見るべきものがある人物として中江藤樹、三輪執斎、中根東里、春日潜庵、高井鴻山の名を挙げ、さらにその事功に見るべきものがある人物として、熊沢蕃山、大塩中斎、吉田松陰、西郷南洲の名を挙げました。井上が見るべきものとして評価した「事功」の内実はどうだったのかという疑問が残ります。同時に、「朱子学に人を固陋迂腐にさせる弊がある」という評価は正しいのでしょうか。まず、近藤啓吾先生の説明にしたがって、朱子の考え方を整理しておきます。

朱子は人間には「自然」と「当然」との二面があるとしました。「自然」とは人間本来の道徳的本性であり、その代表が親子の親・君臣の義・夫婦の別等の「五倫」です。しかし、人は成長するにつれて、本来有している肉体の要求や環境の影響によって、その本心が損なわれます。その損なわれぬ本来の自分にもどす道が「当然」であり、その当然を自覚させるものが学問です。

人の人たる本性を別の語でいえば「理」であり、それに対する肉体は「気」と解しました。しかし、厳密にいえば、気とは存在であり、理とはその気の存在意義であって、理気の二者は「二にして一」であるというのが朱子の真意でした。それゆえに、朱子は究理・復性の説を唱えたのです。

人は、欲によって損なわれている現身を、学問によって本来の己れに復せねばならぬ(究理)が、その為には道理を究めて自らの本質を自覚し、本来の自己を取り戻さねばならない(復性)としたのです。

朱子にとって学問とは、単なる「机辺の読書」をいうものでなく、それによって事物の本質を究明することでした。そして、朱子は事物の本質を究明するためには、博く事物に接することが必要であり、活きた努力が大切であると説き、かつその努力は日常不断にされねばならないとして、その努力して怠らない姿を「敬」と名づけました。つまり、朱子は「居敬究理」、一瞬もこれを心から放つべからず(放心の戒め)としました。

以上が近藤先生の説明に基づく朱子の考え方です。

『中庸』の言葉でいえば、居敬は尊徳性(徳性を尊ぶ)、窮理は道問学(問学に道る)となりますが、朱子はそれを車の両輪としていたことが最も重要です。

朱子は、自分の心を研究するだけでは不十分であり、そのほかに古来の聖賢の言行はもちろん、宇宙の万事万物にわたって道理が備わっているのだから、その道理を明らかにし尽くす必要があるとしたのです。これに対して、陸象山は心を明らかにすればそれで足りると説きました。

南宋時代の淳熙二(一一七五)年、歴史に残る対面がありました。朱子が、鵝湖山(現在の江西省上饒市鉛山県)上の鵝湖寺で、陸象山、その兄陸九齢と直接対面したのです。「鵝湖の会」として知られています。時に朱子四十六歳、九齢四十四歳、象山三十七歳。

対論は三日にも及ぶ激しい論争となりました。九齢、象山はそれぞれ詩に託して朱子を批判しました。九齢は、幼くして親を愛することを知り、長じて兄を敬うことを知る心さえわかれば、煩瑣な経伝の註釈も、精微な思索も不要であって、それは人を窒息させるだけのものであると批判しました。一方、象山は自己の学は易簡の工夫であって、永遠かつ偉大だと誇り、朱子の学を支離定めなきものであると罵ったのです。

これに対して、朱子は陸兄弟の詩に和して、「却って愁ふ説きて無言の処に到りて 信ぜず 人間に古今あるを」と詠んでいます。近藤啓吾先生は、この朱子の言葉を次のように解釈しています。

「愁ふべきは陸氏兄弟の思想、道の至極はことばの及ぶところでないとして、人間に古今があることを知らない、即ち昔の聖人と呼ばれた人々と今の我々とは、その本性に於いては異なることがないが、現実には気質の差によつて大いなる相違があるといふ重大な問題を無視した論である」

崎門学正統派の若林強斎は、この朱子の反論について次のように講義しています。

「本然は変わることないが、気質から云うと堯舜の様にゆかぬは定め。それゆえ学力を以て気質変化して、義理の身になる様にすることぞ。学はいこう力を用い、心を苦しめていかぬと、吾物に成らぬ。それで骨折ることぞ。ずらりずらりと性善なゆえ、ゆくものじゃと言うてゆくことでないぞ。それを知らずに、人は性善に生まれているからは聖人じゃ、吾れじゃとて、かわることはないと言うは、大の誇ると言うものぞ。禅学の即心即仏を言いたり、この心が昭々霊々たるものじゃ、万法唯一心じゃ、この心さえ得ると別に法はない、この心を得るよりないゆえ、釈迦も達磨も供につれると言う様に大言を言うて人を陵ぎ見下す様になりたものぞ。この本心さえ得るとよいよいとばかり言いても、得らるるものでない。みなこの人間に古今あるを信ぜぬから誤まらぬものはないぞ」(表記、仮名遣い等を改めた)

陸兄弟の詩に和した朱子の詩は、山崎闇斎が承応元(一六五二)年から同三年の間にまとめた『大家商量集』に収められています。正保四(一六四七)年に『闢異』を著し、倫理の尊厳を明らかにし、禅の思想を批判した闇斎は、陸氏の学に禅学の特色が表れていることの危険を痛感し、『大家商量集』をまとめようとしたのです。

『大家商量集』には、陸氏の学に禅の投影を見た朱子の語が収められています。例えば、「近ごろ陸子静の言論風旨の一二を聞くに、全く是れ禅学」、「陸学固より禅に似たる処あり」などです。

王陽明の語録をまとめた『伝習録』に「(心は)虚であるとともに霊妙、かげりもなく透明で、あらゆる理がそこに具わり、一切の事為がここから出来する。心のほかに理があるのではなく、心のほか事為があるのでもない」とある通り、陽明学派は「心から万事が出てくる」と説きました。この考え方がなぜ朱子学者の反発を買うのでしょう。小倉紀蔵氏は次のように書いています。

〈「心から万事が出てくる」というのがなぜ朱子学者から嫌われるかというと、これは仏教の考えそのものである、という認識があるからだ。「三界は虚妄にして、但だ是一心の作なり」という『華厳経』の言葉に端的に表されているように、仏教ではこの世界を心がつくったものだと見ている、というのが朱子学者たちの共通した嫌悪であった〉

朱子はまた、陸氏兄弟が実践に奔るため学問を廃し、自ら学問を廃するだけではなく、他人まで誘って廃させると批判しました。ただ、朱子自身にも自ら反省するところがありました。『朱子文集』には、次のような言葉が収められています。

「子思より以来、『尊徳性』と『道問学』を教えの両輪としてきたが、陸象山は『尊徳性』を専らに主張している。翻って熹自身はどうかといえば、これまで『道間学』に傾斜していたかもしれない。彼の学問には見るべきものも多いが、義理の探求は大雑把なもので、杜撰な道理を振りかざして、それに固執しているだけのことだ。熹の方は、義理については疎かにしていないつもりだが、全体のポイントが曖昧になってしまっている嫌いはあるかもしれない。これを機会に反省して、教えの両輪を全う出来るよう立て直そうと思う」(田尻祐一郎氏訳)

朱子の定説を明らかにしようとした山崎闇斎

そもそも、朱子の学問は宋朝の国運をいかにして振起させるかという現実の問題を主題としたものでした。ところが、朱子の後継学者には思想の実践面が失われていきました。近藤先生は、次のように指摘しています。

「朱子の学の後継学者は、朱子学の…思想を実践してみづからの向上を計るよりも、むしろ知識とし、理論化体系化せんとした為め、理論としては精密となり組織化されたが、本来は実践の学であることを忘れ、人間の実際より離れた知識遊戯に陥って、死物化するを免かれぬ面が生じた。そしてこの風は元明代に及び、朱子学が科挙の題目となるに及んで、いよいよ定着した」

特に、明朝第三代・永楽帝(在位:一四〇二~一四二四年)時代の朱子学の変容に注目しなければなりません。

もともと、朱子は『大学』『論語』『孟子』『中庸』を註解しましたが、『大学』については『章句』『或問』があり、『論語』と『孟子』については『集注』があり、『中庸』については『章句』『或問』『輯略』がありました。これをすべて集成したものが朱子の四書註解のもともとの姿だったはずです。

ところが、建文帝を倒して天下を奪った永楽帝は、思想統制を強め、『四書大全』『五経大全』『性理大全』の三大全を編纂させました。その際、朱子の『中庸輯略』を除き、また朱子の『集注』『章句』を掲げながら、その各条下に諸学者の説を集録して、朱子の真意をわからなくしてしまったのです。

これについて近藤先生は、「かくなつてはこれは最早朱子学ではなく、改変せられた明学といふものであり、朱子経解の真意はここに全く失はれてしまつたといはねばならない」と書いています。

一方、宇野哲人は、「明初の朱子学者はいたずらに格物窮理を説くけれども、実際においては、『近思録』『或問』等を研究するばかりで、非常に固陋であった。……いたずらに居敬窮理を説くばかりで、心に反省することを知らなかった。陽明は実にその反動として起ったのである」と指摘しています。

そして、わが国では、『四書大全』によって変貌した朱子学が主体とされ、それがそのまま藤原惺窩、林羅山の朱子学として継承されていったのです。しかも、両者はともに明を「中国聖人の邦」として敬慕し、理想の国家として憧れていたのです。

こうした歪められた朱子学に不満を抱き、朱子の定説を明らかにしようとしたのが、山崎闇斎にはじまる崎門学派でした。

大塩中斎と『靖献遺言』の精神

朱子学末流に挑んだ点では、大塩も同じでしたが、彼は陽明学によってそれを為そうとしたのです。

訓詰か詩文にばかり走る儒者に失望を深めていた大塩は、文化十三(一八一六)年、たまたま明の儒者呂新吾の『呻吟語』に出会いました。宮城公子氏は、大塩が「『呻吟語』から、形骸化した五倫の道の実践や無内容な訓詰や詩文を離れ、自分の内面をみつめて克己を重ねる姿勢を学んだと思われる」と指摘しています。

ただし、当時関西では、陽明学を講じる者はなく、大塩は三輪執斎の翻刻した『古本大学』『伝習録』などの王陽明の著作を独学で学ばねばなりませんでした。

大塩は、佐藤一斎に寄せた手紙で、儒学者の教授するのは訓詁でなければ詩文だと指摘し、自らもそうした型にはまり、それに感化されていたことを悔いています。その上で、大塩は次のように書いています。

〈道理を外部に求める志は一変しました。かくして、私の志は「誠意」をもって目的とし、「良知を致す」をもって「功夫」とするようになりました〉

良知とは人間の生来の道徳心のことであり、大塩は「親を愛し兄を敬し、善を知り悪を知るの良知」と表現しています。

王陽明は、人は等しく良知を備えており、良知に従って、善なる意思を着実に実践し、悪なる意思を徹底的に克服していけば、人は誰しも聖人となると説きました。

『洗心洞箚記』には、「『良知を致す』こそが太虚に至るための道であろう」(上 四十七条)、「心が太虚に帰着したいと望むものは、良知を致すがいい」(上 四十八条)という言葉があります。

大塩は、太虚とは宇宙に普遍的な霊明─絶対知的なものだとしています。この太虚に帰することによって、人々が生まれながら心の中に備える良知を明らかにすることができると説いたのです。

ただし、大塩は、生まれながらに持っている良知に安住しようとはしませんでした。彼は、〈ああ、良知は聖学の真髄である。これを「致す」ことがむつかしいので、そこで病癖をひきおこす。だから、学徒は、良知を生まれながらに持っているということを頼みにしてはいけない。本当に「之を致す」という実践を日常生活の中、書を読み武を講ずること、その他凡百のつまらないことについてまで行えば、道徳と事業は、きっと古人においつくだろう〉(上 百八十条)と書いているのです。

また、大塩は徳性を尊ぶだけでは不十分だと考えていました。「陸象山の読書の方法は…徳性を尊ぶといっても、そのために読書を廃することなどどうしてあろうか」(下 百三十二条)とも書いていたからです。

大塩が批判しようとしたのは、権力維持のために良知を排除しようとする学者たちでした。彼は「清朝の学徒は、たいてい良知を貴ばない。その理由は、他でもない。朝廷が良知を憎むので、それに阿っているのである。朝廷を憎むのは、他でもない、良知が孝弟であるからなのだ。士大夫がもし、本当に孝弟の心を尽したならば、それが清朝に被害を与えることは計りしれないものがある。それで憎むのだ」(下 七十六条)と書いています。

そして、大塩が標的にしたのは、陽明学に攻撃をしかけてくる、固陋化した「朱子学末流」でした。特に彼は、清朝の学者・陸隴其(稼書)を厳しく批判しました。ここで注目すべきは大塩が自らを陽明学者であるとは規定していなかったことです。

大塩は、「先生の学、之を陽明学と謂ふか」という弟子の質問に対して、そうではないと否定しました。そして、さらに問う弟子に対して、「我が学は只だ仁を求むるに在るのみ。故に学に名無し。強ひて之に名ずけて孔孟学と曰ふ」と答えていました。

角田達朗氏は「孔孟の衣鉢を継ぐための最も直截な手段として、彼は陽明学を選んだのである。したがって、陽明学を学ぶことは、彼にとっては朱子学に対抗することを全く意味しなかった。中斎は孔孟学の真髄を求仁の一語に尽きると考え、求仁に裨益するものであれば、王陽明・朱子・二程・張横渠といった儒者はもちろんのこと、異端から学ぶことも厭わずという立場を取った」と述べています。

しかも、大塩は朱子の士気を高く評価し、それを手本としていたのです。彼は『洗心洞箚記』で次のように書いています。

〈朱子が、「臣子は身を愛して自ら佚するの理なし」と言っている。

また、「事を論じては、祇だ当に其の理の是非を言うべし。其の事の利害を計る当からず」とも言っている。

また、「学者、当に常に『志上溝壑に在るを忘れず』を以って念と為すべし。則も道義重くして、而して死生を計較するの念軽し〉(下 百三十条)

ここにある「志上溝壑に在るを忘れず」は『孟子』「滕文公章句下」にある言葉で、この言葉の後には「勇士は其の元を喪ふことを忘れず」とあります。この一節は、勤皇の志士たちの座右の銘ともなりました。例えば、崎門学派の梅田雲浜は、その印に「不忘喪元」の四字を刻していました。

そして、吉田松陰は『講孟箚記』で「志士は道義のためならば、窮死してその屍を溝や谷に棄てられてもよいと覚悟しており、勇士は君国のためならば、いつ首をとられてもよいと思っている。…わたくしとしては、志士の節操を変えぬ態度を心掛けねばならない」(近藤啓吾先生訳)と書いています。

大塩は朱子について、〈文公(朱子)の志気は、百代前をも感動させ、百世の後までも人心を奮起させるものだと言えるのだ〉(下 百三十条)とも書いています。大塩が崎門学派と同様に命懸けで節義を貫こうとしていたことが窺えます。まさに、それは朱子の生き方であり、闇斎の高弟浅見絅斎の『靖献遺言』の精神です。近藤先生は、「本来かくあるはずの姿と、かくあらしめねばならぬ努力、朱子はこの両者を人の人たる道として強調した。『靖献遺言』は、人間として本来あるべき姿を説くとともに、かくあらしめるための道を示したものである」と書いています。

前回紹介したように、大塩は、「義を行うべき場合に直面すれば、わが身の禍福生死を顧みずに果敢に義を行い、道を行うべき場合に直面すれば事の成敗利鈍を問わずに公正に道を履み行う」と書いていました。それに続く以下の文章こそ、大塩が『靖献遺言』の精神を共有していたことを示すものかもしれません。

〈漢代では諸葛孔明、唐代では(顔杲卿と顔真卿)二顔、宋代では文(天祥)と謝(枋得)、明代では劉(念台)と黄(石斎)、この人たちはみな、道と義とを日常茶飯事としていたのである〉(下 八十三条)

大塩は、『靖献遺言』に収められた忠孝義烈の士八人のうち、諸葛孔明、顔真卿、文天祥、謝枋得の四人の名を挙げているのです。一方、松陰は、野山の獄の中で『靖献遺言』を読了し、その感動を「詠史八首」と題して、『靖献遺言』の人物八人を詠じた古詩を作ったほどです。

大塩と松陰を単純に陽明学派と位置づける井上哲次郎の見方は、見直されなければなりません。『靖献遺言』の精神は崎門派のみならず、陽明学派を含めて広く維新を目指した志士たちの心をとらえていたのです。

そして、これらの志士たちは、朱子学と陽明学の違いを超えて、「かくあらしめねばならぬ努力」の重要性を共有していたように見えます。このことは、崎門学派の楠本碩水が昭和六年に編んだ『朱王合編』に寄せた序文において、内田周平先生が次のように書いていたことにも窺われます。

「…朱学を為むる者に、大橋訥庵・小笠原敬斎・楠本端山・並木栗水等有り。王学を為むる者に、吉村秋陽・春日潜庵・池田草庵・東沢瀉等有り。皆な真実の心を以て、義理の学を治め、相共に商量し討論して、以て帰する所を定む。之を当時の儒士の専ら訓詰詞章を攻むる者に視ぶるに、其の識見気象、迥然として別有り」

このように内田先生は陽明学派の「識見気象」をも評価していたのです。ただし内田先生は、一方で「陽明学に於ては動機を重んじて結果を軽んじます」とも指摘し、大塩の動機を評価しつつも、その結果については厳しい評価を下しています。ここで想起すべきが、絅斎の次の言葉です。

「大抵吾が国近世の士為る者、率学を好まず、たまたま学を為す者は、以て記誦詞章の資とするに過ぎず。而して英気志気ある者は、視て以て学問読書を以て事に益無しと為し、笑い訕点(わらいそしる)して以て之を攘ふ。殊て知らず、学ばざれば即ち大義を弁ずる能はず、夫の英気志気も用ふる所を知らず」(『靖献遺言講義』)

若林強斎の講義にも「践履(実践)が悪いではないが、践履しようと思えば、講学せねばならぬ。陸子などは義理みがくことをやめて、行いさえすればよいと云うことゆえ、ここが病じゃ。どれほど難行苦行しても、筋目にあずからぬことは践履しても役に立たぬ」とあります。

絅斎も強斎も、講学の重要性を強調してやまなかったのです。

居敬と窮理を車の両輪の如く尊ぶことの大切さが、改めて痛感されます。