大塩の挙兵と「神武帝御政道」への回帰(『月刊日本』平成27年4月号)

利益を貪る特権的富商と自己保身を図る役人

洗心洞箚記①いま、グローバル企業や大企業の利益を優先する形で、労働法制の改悪が進められようとしています。例えば、三月には政府の規制改革会議が「解雇の金銭解決」制度の導入を求めました。裁判で解雇無効となっても金さえ払えば解雇できるようにしようという提案です。規制改革会議の委員・専門委員の大半は産業界から送り込まれています。労働分野だけではなく、水道などの公共サービス、医療、農業など、国の根幹にかかわる政策決定を、こうした一部の産業人が主導することに憤りを覚える国民が増えつつあります。

かつて、昭和維新のイデオローグの一人権藤成卿は、「暴富者と政治上の権力者が結托するときは、国民一般の資力はいつの間にかそれ等の者に兼併さるる結果となる」(『自治民範』)と書いていました。昭和七年の五・一五事件の前日、三上卓先生が起草した檄文「日本国民に檄す」には、「政権党利に盲ひたる政党と之に結託して民衆の膏血を搾る財閥と更に之を擁護して圧制日に長ずる官憲」と書かれていました。

そして、いまから百七十八年前の天保八(一八三七)年、挙兵を決断するに至る大塩中斎(平八郎)の眼前にあったのも、困窮する国民を放置したまま、自己保身を図る役人と、それと結託して利益を貪る特権的富商の醜い姿でした。

寛政五(一七九三)年に大坂天満で生まれた大塩は、文政元(一八一八)年に大坂東町奉行所与力となり、天保元(一八三〇)年まで務めました。飢饉の続く天保四年に彼が書いたのが『洗心洞箚記』です。

さて、天保五年夏になって快晴が続くようになり、凶作飢饉もようやく終わりか、と思われたのも束の間、天保七年は春から異変続きでした。五月初句には激しい風雨が続き、六月になると連日の多雨で、七、八月には未曽有の全国的冷害となりました。大坂市中の米価は高騰を続けました。この年の大坂周辺の惨状を、矢野太郎が編纂した『浮世の有様』は生々しく記録しています。

「十二月三日─寒気きびしい。貧窮のもの飢寒に苦しみ死ぬもの日々にふえ、盗賊・押し込み・追剥ぎますます甚だしく、盗賊方の役人の弁当・履物を奪い取るもの、白昼両替店の店で金銀を奪い去るものまで現われた」

そして年末には、「巾着切、または往来にて人の手に持ち背におひぬる風呂敷包、または赤飯、餅のたぐひを配り歩く丁児、小女中の類をば、横面を張りたふして奪ひ取るといふ騒々敷有様」という状況でした。

米価が二、三カ月で五割もはね上った背景には、米の買い占め、値段つり上げがあったと考えざるをえません。それを取り締まれない役人がいたとすれば、そこに町人との癒着があったと考えられます。挙兵に際して大塩が用意した檄文には次のように書かれています。

「三都の内大坂の金持共は年来諸大名へ金を貸付けてその利子の金銀並に扶持米を莫大に掠取つてゐて未曾有の有福な暮しを致しをる。彼等は町人の身でありながら、大名の家へ用人格等に取入れられ、又は自己の田畑新田等を夥しく所有して何不足なく暮し、この節の天災天罰を眼前に見ながら謹み畏れもせず、と云つて餓死の貧人乞食をも敢て救はうともせず、その口には山海の珍味結構なものを食ひ、妾宅等へ入込み、或は揚屋茶屋へ大名の家来を誘引してゆき、高価な酒を湯水を呑むと同様に振舞ひ、この際四民が難渋してゐる時に当つて、絹服をまとひ芝居役者を妓女と共に迎へ平生同様遊楽に耽つてゐるのは何といふ事か、それは紂王長夜の酒宴とも同じ事、そのところの奉行諸役人がその手に握り居る政権を以て右の者共を取締り下民を救ふべきである。それも出来なくて日々堂島に相場ばかりを玩び、実に禄盗人であつて必ずや天道聖人の御心には叶ひ難く、御赦しのない事だと、私等蟄居の者共はもはや堪忍し難くなつた」

大塩は、様々な飢饉対策を進言していましたが、東町奉行・跡部山城守は「貴公儀は当時隠居の事に候へば、このような事は構ひこれ有るまじく、強て申され候はば曲事たるべく、強訴の罪に処すべし」と拒否したのです。

天保七年九月上旬、大坂高麗橋三丁目に次のような張紙が出されました。

「今年引続き候て、天災地変五穀不熟にて諸民必至難渋いたし、困窮絶体絶命に至候は、全く江戸の政道偏頗私曲の沙汰に相成、(中略)下民の歎きをいとはず営中の奢つよく、諸民を芥のごとく軽んじ、手儘になる小身者は厳科に処し、少し手儘に致し難き者は三逆の大罪をも軽くし、(中略)此度天道様より新に天命罷下り、天下の諸民諸生は申すに及ばず、百姓町人沙門の身にても天道様への御奉公と存じ、急々大義を思立つべし……」

こうした声は、まさに大塩の思いを代弁するものでした。大塩が具体的行動を決意したのも、この頃だったに違いありません。

困窮に喘ぐ民衆との一体化─「万物一体の仁」

そんな大塩の怒りをさらに掻き立てたのが、跡部の態度です。天保七年十一月、幕府から江戸への廻米の命令を受けた跡部は、己れの功名、栄達を優先し、飢餓に苦しむ大坂町民を犠牲にしたのです。彼は西町奉行与力である内山彦次郎に指示し、江戸廻米に尽力させたのです。内山は密かに兵庫に赴き、豪商北風荘右衛門と計り、多量の米を買い上げて江戸に送りました。この米は、天保八年四月に予定されていた新将軍家慶の将軍宣下の式典の費用確保のためであったと思われます。

大塩はこの江戸廻米に触発され、檄文を書いたと思われます。檄文には「大坂の奉行並に諸役人共は万物一体の仁を忘れ、私利私欲の為めに得手勝手の政治を致し、江戸の廻米を企らみながら、天子御在所の京都へは廻米を致さぬのみでなく五升一斗位の米を大坂に買ひにくる者すらこれを召捕るといふ、ひどい事を致してゐる」と書かれているからです。

ここにある「万物一体の仁」こそ、大塩の思想を理解するキーワードです。

王陽明は、井戸に落ちようとする赤ん坊に対する惻隠の情、哀鳴する鳥獣に対する忍びざるの心、草木の枯折に対する憐憫、瓦石の破壊に対する愛惜の情、すべて人間生れつきの「一体の仁」の発現であると説きました。大塩は、この「一体の仁」に基づいて困窮に喘ぐ民衆と一体化しようとしたのです。これは、彼の一貫した思想であり、『洗心洞箚記』にも明確に示されていました。

「聖人は、天地万物を以って一体と為し、人や物を、自分の首・足・腹・背・手臂と同じに見ている。そこで、人や物の病気や痛みは、自分の病気や痛みである。それだから、自分の心が悪むようなことを、これっぽっちも他人に加えようとはしない。天地万物を以って一体と為すというのは、このことなのである」(下 八十一条、松浦玲氏訳、以下も)

ところで、「二程」として知られる北宋の儒学者がいます。程明道(程顥)とその弟程伊川(程頤)です。朱子は二程をともに顕彰しましたが、万物一体の仁を強調したのは程明道です。

大塩は、『洗心洞箚記』で、〈「民を視ること傷めるものの如くす」の四字、前には程明道先生にたっとばれ、…戦国時代からさらに秦・漢と時代が下ってくると、「傷めるものの如くす」という政治は、完全に亡び尽してしまった。悲しいことではないか〉(上 百二十四条)と書いています。

挙兵間際、門弟の宇津木矩之允(静区)は大塩の挙兵を止めさせようとしました。宇津木は、洗心洞随一の俊才で、大塩最愛の門弟でした。大塩の大著『古本大学刮目』の訓点をまかされていたほどの人物です。

宇津木は、救民は町奉行が主体となってやるべきだと説き、富豪を誅伐したならば、民を救おうとしてかえって兵火で民を災し、挙句百姓一揆のごとく秩序を乱すことになる、と大塩を諌めたのです。

この大塩と宇津木のやりとりについて、中野正剛は昭和十七年十一月十日に早稲田大学大隈講堂で行った演説「天下一人を以て興る」で言及してます。本誌主幹の南丘喜八郎が『赤子が泣くのは俺の心が泣くのだ』(当社刊)で紹介している通り、大塩は、淀川の堤に捨てられた捨て子を見たときのことを語り、宇津木に対して「お前は赤ん坊の泣声とお前の心との間に紙一枚を隔てて居る。お前は赤ん坊を見物して居るのだ。唯可哀想だと言ひながら……。俺は違ふ。赤子の泣くのは俺の心が泣くのだ」と語るのです。

大塩はこの最愛の弟子の諌言に斬殺をもって応え、挙兵に立ち上がるのである。宮城公子氏は、「私は大塩が、宇津木の言葉を認め彼を生かしたならば、大塩の挙兵の意図が今ここですべて崩壊する、大塩は宇津木を殺さねば前へ進めなかったのだと考えたい」と書いています。

『洗心洞箚記』を革命宣言書と見る山縣明人氏

岩国短期大学教授の山縣明人氏は、『洗心洞箚記』を近世幕藩体制の末期的症状を告発し、回天を計ろうとする知識人への革命宣言書ととらえます。挙兵への伏線として『洗心洞箚記』が執筆されたという仮説を立てる山縣氏が注目するのが、次の箇所です。

〈「一利を興すは、一害を除くに如かず、一事を生ずるは、一事を省くに如かず」といわれる(元初の宰相・耶律楚材の言葉=引用者)。……ああ、政治の道は、実に、害をなすものをとり去るということに尽きる。だから、「鄭声(鄭の国の音楽)を放ち、佞人(口先巧みにへつらう、心のよこしまな人)を遠ざく」(弟子の顔回の質問に対する孔子の言葉)というのも、ただ人心を害するものをとり去っただけなのだ。

漢や唐のなかごろの君主になると、この意味がわからず、因循姑息こびへつらうような小愛をほどこし、それで民に恩恵を与え物をうるおしたとしている。ああ、漢・唐の人のすることは、三皇五帝の天徳に及ばないわけであるよ〉(上 百六十条)

山縣氏が指摘するように、大塩は、「こびへつらうような小愛をほどこしている」幕府と、特権的門閥町人のやり方を批判し、それから、「人心を害するものをとり去る」という具体的行動段階を示唆していたのです。

大塩は天保七(一八三八)年冬から翌八年正月にかけて、一党のものの結束を固めるとともに、挙兵準備を始めました。大塩はその蔵書のすべてを売り払い、その代金で窮民への施しを行っています。「奸吏」「奸商」を討つという挙兵の方略が具体化したのは、東町奉行・跡部山城守と西町奉行・堀伊賀守の市中巡回の予定が判明した二月二日以降です。

二月十五日、大塩は与党の同志を集め、挙兵を二月十九日午後四時と決定しました。挙兵計画は、まず跡部と堀が迎方天満与力の朝岡助之丞宅へ落ち着くのを見計らって、両奉行を討ち取り、続いて市中に火を放ち、豪商隠匿の金銀、銭、穀物を、駆けつけた救民に取らせようというものである。

義を行うためには自ら受ける災いも顧みないという覚悟が、『洗心洞箚記』には暗示されていました。

〈「誼を正し道を明らかにする」という教え、口にする者のなんと多く、実行する者のなんと少ないことか。その理由をつきつめてみると、他でもない、ただ、功を計り利を計るという欲があるからなのだ。…この欲を除去する実践は、義を行うべき場合に直面すれば、わが身の禍福生死を顧みずに果敢に義を行い、道を行うべき場合に直面すれば事の成敗利鈍を問わずに公正に道を履み行う。ただこれだけである〉(下 八十三条)

また、大塩は「人が、神を存して性を尽せば、散じて死んでも、その方寸の虚は、太虚に混じり合い同一の活動をし、朽ちもせず亡びもしない」(下 百六条)とも書いていました。

大塩の計画にはその門人である奉行所関係の役人と農民たちが参加しました。ところが、内部から平山助次郎、吉見九郎右衛門という二人の密訴者が出て、挙兵の計画が漏れてしまったのです。そこで、十九日午後四時としていた計画を早め、同日午前八時、大塩は蜂起しました。まず、朝岡助之丞宅へ大砲を打ち込み、大塩邸に火を放ちました。船場に入った一党は、今橋筋の鴻池一党、天王寺屋五兵衛、高麗橋筋の三井呉服店、岩城、升屋等々の大豪商に炮烙玉を投げ込み、火矢、鉄砲で焼き立てました。

「神武帝御政道」への回帰を願った大塩

大塩は黒い陣羽織、野袴に白木綿の鉢巻といういでたちで、部隊の中央部で指揮をとりました。一党の先陣には「救民」と書かれた旗幟が掲げられ、右方は中央に「天照大神宮」と大書された旗、その脇に「湯武両聖王」「八幡大菩薩」と書かれた旗、左方は今川氏の家紋五三の桐を染め抜いた旗が掲げられました。

挙兵が天照大神を奉じ「堯舜天照皇大神の時代」に復帰することを目指したものであることが窺われます。

徳富蘇峰は『近世日本国民史』で、大塩の批判の対象は「大坂の町奉行と大坂の金持ち」に限定されていたとし、また、森鴎外は『大塩平八郎』において、大塩を諫言した宇津木に「先生の眼中には将軍家もなければ、朝廷もない」と語らせました。

しかし、大塩の挙兵には、不完全ながらも、天照大神の時代への回帰、つまり國體の理想への回帰という願いが示されていたようにも見えます。檄文には、「神武帝御政道の通り、寛仁大度の取扱ひにいたし年来の驕奢淫逸の風俗を一洗して改め、質素に立戻し、四海の万民がいつ迄も天恩を有難く思ひ、父母妻子をも養ひ、生前の地獄を救ひ、死後の極楽成仏を眼前に見せ、支那では堯舜、日本では天照皇太神の時代とは復し難くとも中興の気象にまでは恢復させ、立戻したいのである」と書かれていました。この大塩の檄文を高く評価したのが、昭和維新運動に挺身した中村武彦です。

〈悪政に対する憤激とともに、おのずから恋闕の思いがにじみ出て、江戸大坂を大事にして、京都を無視する幕府の政策を憤り、「天照皇大神の世」を理想とし、「神武帝御政道」を目標として、復古維新を念願する大塩中斎の精神が読みとれるのである。

しかも、彼の憂うるところ、彼の呼びかける相手は、武士階級知識階級ではなく、農民であり、町人であり、一般庶民大衆である。庶民大衆を思う心が天皇を慕う心に直結しているのである〉

さらに檄文には、「天子は足利家以来、全く御隠居同様で賞罰の権すら失はれてをられるから下々の人民がその怨みを何方へ告げようとしても、訴へ出る方法がない」と書かれています。中村は、この大塩の嘆きが、必然的に皇政復古の願いにつながらざるを得ないと説いています。

樟蔭東女子短期大学名誉教授の森田康夫氏は、幕府内に聖人の再来が期待できなくなったとき、大塩は天皇への改革者としての期待を募らせていたと指摘し、『洗心洞詩文』に収められた大塩の詩を挙げています。

臘月野外ニ口号ス、愛宕鞍馬ノ諸嶺ハ

雪中ニ於テ埋ル、故ニ句中之ニ及バン

橋柳糸ヲ生ミ岸梅蕾ム

回陽未ダ解ケズ我ガ心憂シ

帝城遥カ雪山ノ下ニ在リ

貧窶ニ貴富ノ裘衣無カラン

この詩を、森田氏は次のように解説しています。

「橋のそばの柳は糸のように細い枝を垂れ、岸辺の梅はつぼみを着けはじめた。それでも春の兆しはまだ固く閉ざされ、聖人が現われて欲しいという私の期待もまだ憂慮するばかりだ。それにしてもここから天皇の都は雪山の下の方角にある。しかし私がそこに出かけたくとも富貴の人のように皮衣がないので体面が保てない。それでも聖天子に我が心を伝えるために都を望めるここにやって来たのだ。どうか天子にも聖人の出現に力を貸してほしいものだ、と大塩は心のなかで叫んでいた」

ここで想起すべきは、天皇親政の理想を唱えた頼山陽と大塩の深い交流です。両者の交流は文政五(一八二二)年以前から始まっており、山陽から『日本外史』を贈られた大塩は、そのお礼として九寸余りの愛刀を贈っています。

山陽はまた、大塩に贈った七言古詩で、大塩の智勇と廉潔を嘆称して「小陽明」と呼んでいます。天保三年四月に大塩は『古文大学刮目』の草稿を山陽に示し、序文を依頼しています。山陽はそれを快諾しましたが、同年九月、その約束を果たせぬまま亡くなりました。

山陽は、『日本政記』の冒頭、『日本書紀』によりながら、「神武帝の徳は明かで物に蔽はれることなく、御心は広く大きくある」と書いています。森田氏は、大塩の天皇親政への期待は、これらの山陽論賛から示唆を受けたものである可能性を指摘しています。

さて、大塩の乱に対して、幕府軍二千名が反撃し、十九日夕刻には鎮圧され、一党は離散を余儀なくされました。大坂町奉行が必死の捜索を続け、続々と逮捕されましたが、大塩の行方はわからなくなりました。乱から四十日経った三月二十七日、ついに大塩は大坂市中の油掛町美吉屋五郎兵衛方に潜伏しているのを突き止められました。同日早朝、城代土井利位の家老鷹見泉石の指揮のもと、美吉屋を襲ったのは、あの江戸廻米で動いた内山彦次郎でした。大塩は、追手が迫ったことを知ると火を放ち、脇差を咽喉に突き立て、返す刀を投げつけて果てました。時に大塩四十五歳。

乱の後、一年数カ月の吟味を経て、天保九年八月、幕府は大塩の行為を「反賊の所業」と断定しました。大塩の評価が高まることを恐れた幕府は、罪状までもでっち上げました。「大塩は表では謹厳の行状を飾り、文武忠孝の道を講じていながら、その内実は、養子格之助に嫁合すべき約束で養っていた橋本忠兵衛の娘みねと姦通して、男子今太郎を生ませた」というものです。これは、大塩を裏切った吉見九郎右衛門が保身のために書いた密訴状によったもので、事実とは異なります。

幕府は、大塩の乱の影響を必死で封じこめようとしましたが、各地に波及していきました。乱から一カ月あまり経った四月六日、江戸浅草では「大坂浪人」の名で、打ち毀しを行う旨の張り札が出されました。また千住では、「大塩手下の浪士」と称する者が、武蔵・下総で七、八百人蜂起すると扇動しました。同月、備後三原では「大塩平八郎門弟」の幟を立てた八百人ほどの一揆が起こりました。

五月十日には、大塩の門人堀井義三郎が、幕府領の播磨加東郡の西村で蜂起し、六月には越後柏崎で国学者の生田万が「大塩の門弟」と称して反乱を起こしました。

七月には、「堯舜天照皇大神の時代」の「仁政」への復帰を掲げて挙兵した大塩の乱を彷彿させる一揆が起きています。摂津の能勢で勃発した、「徳政大塩味方」と称する一揆がそれです。この一揆では、徳政令を要望する廻文がまわされました。注目すべきは、この廻文宛名に「関白殿下御被露」とあり、「何分格別の以二御仁徳一、帝様より諸御地頭江被二仰付一」たいと、天皇から諸大名へ申し付けることを歎願していたことです。

宮城公子氏は、天皇の「御仁徳」に訴え、現実の幕藩制社会とは別の、天皇の下での新しい社会を夢想していることは、大塩の乱を見聞してはじめて可能なことではなかったかと指摘しています。

井上哲次郎の『日本陽明学派之哲学』以来、陽明学を大塩や吉田松陰の義挙と結びつける「日本的陽明学」論が確立され、三島由紀夫もまた井上の見解に基づいて、「革命の哲学としての陽明学」を発表しました。

大塩の知行合一に対する陽明学の影響は明確ですが、果たして陽明学は「革命の哲学」だったのか。次回以降、日本的陽明学の内実について考えていきたいと思います。