天つ神の兵─國體としての尚武(『月刊日本』平成26年11月号)

『軍人勅諭』と『新論』の一致

新論④

昭和八年六月十七日、陸軍第四師団所属の中村政一一等兵は大阪市北区の天神橋筋六丁目(天六)交差点の赤信号を無視して横断しようとしました。

交通整理に当っていた曽根崎警察署の戸田忠夫巡査が「危ない、気をつけろ!」と怒鳴ると、中村一等兵は一旦歩道に引き返し、「生意気言うな!」と食ってかかり、押し問答の末、再び赤信号を無視して強引に横断しようとしたのです。

戸田巡査が後を追い、中村一等兵をなじると、中村一等兵は「軍人は憲兵には従うが、警察官の命令に服する義務はない」と言い放ちました。この結果、中村一等兵は天六派出所に連行されたのです。その後、二人は殴り合いになり、中村一等兵は大怪我を負いました。

これが「ゴー・ストップ事件」とも「天六事件」とも呼ばれる事件ですが、どちらが先に手を出したかが不明のまま、軍と警察との争いに発展していったのです。六月二十二日には、第四師団参謀長の井関隆昌大佐が「この事件は一兵士と一巡査の事件ではなく、皇軍の威信にかかわる重大な問題である」と語り、警察に謝罪を要求するに至りました。

ここで注目したいのは、この時期、皇軍意識が急速に高まりつつあったことです。

元憲兵隊長の大谷敬二郎の『皇軍の崩壊』によると、「皇軍」という言葉が盛んに使われるようになったのは、昭和六年十二月に犬養毅内閣で荒木貞夫が陸軍大臣に就いてからです。荒木は皇道派の重鎮として知られ、熊本の第二十三連隊長時代の大正八、九年頃から軍隊を皇軍と呼ぶようになっていたといいます。ただ、当時は「皇軍」の言葉は軍内部でも十分理解されていませんでした。

熊本時代、荒木が一兵士に向かって「皇軍の使命は何か」と尋ねると、彼は直立不動の姿勢で「行軍してもヘタバラヌことであります」と大真面目に答えたといいます。「皇軍」ではなく「行軍」と勘違いしていたのです。

大谷が「軍人は『皇軍意識』に徹することによって、国民に対してその優越を誇り、その威信を強調して、一種の治外法権的特権階級的陶酔におちいる」と書いているように、皇軍意識の浸透が否定的影響を与えていたことは否定できません。しかし、本来の皇軍の精神に国民に対する優越意識が含まれていたわけではありません。

荒木が陸軍大臣に就いて間もなく陸軍省がまとめた『皇軍の倫理的研究』には、次のように書かれています。

「皇軍は皇道を以て一貫し儼然たる道徳的基礎の上に立つ軍隊である。故に皇軍は明き軍隊であり、清き軍隊であり、直き軍隊であり、誠の心を以て一貫の生命とする軍隊である。別言すれば公明正大、純粋潔白、正義廉直にして、一般に誠心を以て活動を律する軍隊である。而して其活動の実質に至りては万世一系の皇統を維持し皇運を天壌無窮ならしむる如き國體的規定を受くるは勿論である」

皇軍観念は昭和六年以降に急速に浸透していきましたが、もともと明治維新によって、徳川時代とは本質的に異なる軍として発展していく過程で意識されるようになったものでもあります。皇軍の観念はすでに明治十五(一八八二)年一月四日に明治天皇が陸海軍の軍人に下賜した『軍人勅諭』において明確に示されていたのです。『軍人勅諭』は、冒頭で「我国の軍隊は、世々天皇の統率し給ふ所にぞある」と述べ、次のように神武天皇の御事績について続けます。

〈昔神武天皇躬づから大伴物部の兵どもを率ゐ、中国のまつろはぬものどもを討ち平げ給ひ、高御座に即かせられて、天下しろしめし給ひしより、二千五百有余年を経ぬ〉

そして、兵馬の権が動揺した歴史について述べます。

〈古は天皇躬づから軍隊を率ゐ給ふ御制にて、時ありては皇后皇太子の代らせ給ふこともありつれど、大凡兵権を臣下に委ね給ふことはなかりき。中世に至りて、文武の制度皆唐国風に倣はせ給ひ、六衛府を置き、左右馬寮を建て、防人など設けられしかば、兵制は整ひたれども、打続ける昇平に狃れて、朝廷の政務も漸文弱に流れければ、兵農おのづから二に分れ、古の徴兵はいつとなく壮兵の姿に変り、遂に武士となり、兵馬の権は、一向に其武士どもの棟梁たる者に帰し、世の乱と共に政治の大権も亦其手に落ち、凡七百年の間武家の政治とはなりぬ。世の様の移り換りて斯なれるは、人力もて挽回すべきにあらずとはいひながら、且は我國體に戻り、且は我祖宗の御制に背き奉り、浅間しき次第なりき〉

『軍人勅語』は、さらに明治維新以来、十五年の間に、陸軍と海軍の制度を今のようにつくり定めることにしたと述べ、次のように再び兵馬の権を強調しています。

〈夫兵馬の大権は、朕が統ぶる所なれば、其司々をこそ臣下には任すなれ。其大綱は朕親之を撹り、肯て臣下に委ぬべきものにあらず。子々孫々に至るまで篤くこの旨を伝へ、天子は文武の大権を掌握するの儀を存して再中世以降の如き失体なからんことを望むなり。朕は汝等軍人の大元帥なるぞ〉

ここに示された歴史観は、その五十七年前に会沢正志斎が書いたことと酷似しているのです。

正志斎は『新論』「國體 中」において、神武天皇の東征に際して、敵兵を挫くために、来目(久米)の部隊を専用され、ついに大和を平定し、さらに物部を置いて久米とともに宮廷の護衛とし、国土鎮定の部隊としたと書いています。崇神天皇についても、四道に将軍を派遣して服従せぬものどもを討ち平らげ、皇子豊城入彦命に東国を治めさせたと書き、次のように説きました。

人民には農業の合間に狩猟をさせ、その獲物は貢物とし、また兵役に従事するための訓練とした。このような制度が成立すると、御歴代はそれを遵奉され、境域は日に日に広まり、東は蝦夷を追い払い、西は九州を清め、ついには三韓を平らげ、任那に日本府を設けてこれを統御した、と。

しかし、正志斎は時代を経て状況は変化していったと述べ、次のように説明しました。

昔は来目・物部を主兵として用い、これに民間人の兵を参加させていたが、国造・県主などの地方官もそれぞれの兵を蓄えて人民と社会を保った。ところが、これが一変し、「軍団(徴兵)の制」となり、再変して募兵の制(地方有力者の子弟から兵を採用した健児の制を経て武士の興起になったこと)となり、ここにおいて軍事はみな世襲となり、これを武家と呼ぶようになった、と。正志斎は、ここに兵農分離が始まったと説いています。戦国時代となって群雄割拠し、ついに諸大名が各地に領土を持つ封建の形勢となり、兵制もそれに応じて変化しました。正志斎は次の大きな変化として、源頼朝以降、鎌倉幕府・室町幕府が引き続く天下の兵馬の権を握ったことを挙げました。

正志斎は、これによってさらなる変化が引き起こされたと指摘します。昔から兵はみな土着だったが、天下が動乱状態に入ると、豪傑の士はその土地を離れ、主君を求めて四方に流浪するようになった、と。そして、戦乱が治まっても天下の武士はそれぞれ城下に集中し、土着の武士がなくなり、武士は土地を失った、と。

國體としての尚武の精神

この正志斎の主張は、師の藤田幽谷の考え方を引き継ぐものでした。幽谷は寛政三(一七九一)年に書いた「正名論」で「鎌倉氏の覇たるや、府を関東に開きて、天下の兵馬の権専らこれに帰す。室町の覇たるや、輦轂(天子の御車のことで、天子の都の地である京都を指す)の下に拠りて、驩虞(覇者)の政あり。以て海内に号令し、生殺賞罰の柄、咸その手に出づ。威稜(威力)の在る所、加ふるに爵命(官位)の隆きを以てし、傲然尊大、公卿を奴視し、摂政・関白、名有りて実無く、公方(将軍家)の貴き、敢へて其の右に出づる者なければ、すなはち『武人、大君となる』に幾し」と書いていたのです。

遡れば、この発想は崎門派が発展させてきた考え方でもあります。崎門派の竹内式部の『奉公心得書』には、「……垂加翁(山崎闇斎)ノ古素盞嗚尊ノ権、後世武家ニウツリ、平清盛ニ始テ源頼朝ニ成ト書レタガ深クワケノ有御詞デ……武備ヲ以治ネバ成ヌ国也」とあります。

正志斎が「國體 下」において、人民を愛養する「愛民」の國體を称揚したことについては、すでに述べました(本誌九月号)。彼は愛民と不可分の國體としての尚武の精神を強調しようとしたのです。「國體 上」では次のように書いています。

「昔者、天祖、肇めて天業を基し、蒼生を愛養したまふや、天邑君(農民の長)を定めて、以てこれを綏撫し、勇武(武甕槌神、経津主神)を選びて、以て下土を経略したまひて、而して民、天朝を奉戴するを知れり」

これは、まさに『軍人勅諭』にある「汝等皆其職を守り、朕と一心になりて力を国家の保護に尽さば、我国の蒼生は永く太平の福を受け、我国の威烈は大いに世界の光華となりぬべし」という言葉と響き合うものです。

さて、兵農が分離する前の状態を理想とする正志斎の議論は、水戸藩の政策にも影響を与えました。もともと、第九代藩主の徳川斉昭(烈公)は、農兵制樹立の必要性を認識していましたが、天保年間(一八三〇~一八四四年)には、農兵制の調査研究に着手していました。

嘉永六(一八五三)年にペリーが来航すると、烈公は農兵制具体化に乗り出し、安政元(一八五四)年二月、同藩家老の興津・岡田の両人に概要次のように指示しました。

海防のため、壮丁を農兵に組立てる件については、天保十三(一八四二)年から公式に申し達し、その筋へも懸けたはずだが、既に組立になっているならばよいが、未だそのままであるならば、格別心得よろしく、国恩を弁え、また勇壮で気力ある者を選び、早々農兵を組立てよ。農兵に対しては、苗字帯刀を許し、夫役を免ずる等、それぞれ規模を立て、勿論、軍功によっては格別に恩賞の沙汰に及ぶべきようにして、民間一統の義気を引き立てるならば、当節の急務である国防に、一廉の役に立つであろう、と。

しかし、斉昭の期待通りには農兵制樹立は進みませんでした。ようやく安政二(一八五五)年四月、那珂湊に米艦が来航したのをきっかけに動き始めたのです。同年九月、ついに郷士以下、義民数百人の家格を進めて、特に帯刀を許し、これを農兵に編入させる旨を達し、ここに水戸藩の農兵制が樹立されたのです。

やがて、水戸藩をはじめ幕末の農兵制に含まれた、農民に限定せず、広く武士以外の一般壮強者を募るという発想は、国民皆兵論へと発展していきます。

兵事とは神事である

國體の立場から兵馬の権を論じた正志斎の立場は、神命と結びついた國體論にほかなりません。神話の中に尚武の國體を見出した正志斎は、弓矢や矛の利用はすでに神代に知られており、剣は三種の神器の一つであると強調したのです。そして、わが国は細戈千足の国と呼ばれたと指摘し、天照大神が日本の土地を天孫に授けたもうたとき、天忍日命に来目(久米)の兵を率いて随行せしめられたと書いています。天忍日命は、大伴氏の祖神とされ、「忍」は「押」とも書き「威力ある」の意味です。久米氏の先祖神である天久米命と共に武装して瓊瓊杵尊の先導をしました。

「神聖なる武」を強調した正志斎は「古代においては兵器は神社に蔵われており、征戦のつどかならず神を祭った」と指摘し、垂仁紀二十七年八月件に「弓矢及び横刀を諸の神社に納む」、また同三十九年に剣一千口を石上神宮に蔵めた、とある事実を示しています。そして、正志斎は次のように指摘するのです。

「天皇といえどもあえて自由勝手はされず、戦いにのぞんではかならず神の命を受けたもうたのである。そのため人民の心は一つとなり、力が分散することはなかったが、これは天つ神の兵というべきものである」(橋川文三訳)

兵事が神事だったことを彼は強調しているのです。『日本兵制起源論』は「神社と武器」の一章を割いて、概要次のように指摘しています。

武器を神体として祭ることは神代からのものだが、その後、崇神天皇の御代において興り、神幣として捧げられたのは垂仁天皇の御代で、卜占によって神意を伺って納められたと『日本書紀』にある、と。そして、次のように書いています。

「之が単なる殺人の凶器なりせば如何で神明の前に之を奉納することが出来やう、殊に皇朝古来よりの習慣は神明の前には最も汚穢を忌むものであることに想倒すれば更に此の武器神聖観の観念が如何に強かつたかを了解し得るではないか。即ち、武器は飽く迄、皇祖天津大祖神達の理想を実現する一つの道具である。即ち皇祖天照大神の神器であり、即ち、神体と成り、神霊と成るのである」

大伴家持は、「ちはやぶる 神を言向け まつろはぬ人をも和し」と詠みました。まず言向け和して、大義名分を智し、それでもまつろわず、天業恢弘の聖業を妨害するときに、初めて武力は用いられるという、わが国の理想が表現されています。

ここには、「神聖なる武」という観念が、武力をむやみに発動せず、道義的な目的にしか発動しないというわが国の平和思想を支える観念でもあることが示唆されているように思います。

正志斎が理想としたのは、天つ神の兵、天孫の事業を実現する兵ですが、その理想は時代を経て崩れていきました。正志斎は次のように書いています。

「インドから仏教が入ってから人民の心はついに分裂した。天つ神を崇敬するという気持ちは一筋ではなくなり、天の命を受けるということの意味も曖昧となった。兵事が神事から分離し、もっぱら人事となったのが第一の変化である」(橋川文三訳)

「神聖なる武」の強調は、正志斎の独創ではなく、江戸期の國體思想の発展の中で培われてきたものでもあります。例えば、山鹿素行の『中朝事実』「武徳章」には「蓋し神代の兵武たる、惟れ神は惟れ聖にして、而して天討なり、天兵なり、其の将帥軍伍も、皆な霊神なり。然も猶ほ其の道を存し、其の礼を備へ、而かも其の大事を示す、以て鑑む可き也」「武の徳は惟れ神にして、文の教は惟れ聖なり」とあります。

未完の明治維新─皇軍意識の歪みの元凶

皇軍の理想とは、もともと正志斎が説いた「天つ神の命」を受けた軍にほかなりません。しかし、明治維新の理想が裏切られたことによって、皇軍の理想も歪められてしまったのです。本連載を通じて、明治四年前後から平田派、崎門派、水戸学派が排除されていった事実を指摘してきましたが、それは神武創業の理想への回帰から遠のいていくことを意味していました。

そこには、欧米列強の進出に直面したわが国が独立を維持するために、近代的な軍隊の創設を急がねばならないという事情がありました。同時に、薩長藩閥による権力の強化という側面があったのです。

この矛盾は明治六(一八七三)年に発布された徴兵令にも潜んでいたのです。由井正臣は『軍隊 兵士』で、徴兵制採用の実際の理由は、復古ではなく、大量の兵士を確保し、西洋の軍隊を模倣し、藩意識による弊害をなくすというところにあったと主張しています。王政復古の精神に基づく古代兵制への復帰という理念が利用されたと見ることも可能です。

司馬遼太郎は「あるとき(柳原二位局が)……明治

天皇が軍服を着て白い馬に乗っているのをみて、あんなことをしていれば天皇家の宮廷も滅びると、まわりの女官たちにいったそうですね。天皇とか公家とかいうのは、ああいう武人の格好をしなかったからここまで持ってきたんだ」と語っていますが、軍服の天皇像にも、近代的軍隊の創設という要請と神武創業への回帰という二面性があったと思われます。

明治九(一八七六)年には、廃刀令発布に反対して太田黒伴雄、加屋霽堅らが、熊本で神風連の乱を起こしました。加屋は次のように書き残しています。

「わが神武の国、刀剣を帯ることは神代固有の風儀にして、国本よつて以て立ち皇威よつて以て輝き、以て神祇を慰祭し以て奸邪を禳除し以て禍乱を戡定す。然らば則ち之を大にしては以て国家を鎮め之を小にしては以て護身の具たり。ああ尊神尚武の國體、須臾も離るべからざる者それ唯だ刀剣か、況や敬神愛国の朝旨を体し人をしてまた遵守せしむべきの責任に当るもの、いかでか刀剣を忽にすべけんや。刀剣の得失また偉なるかな」

神谷俊司氏は『武を考へる』において、日本建国の思想の中枢に「武」の存在をみるのは、維新の初心であったと指摘し、次のように書いています。

〈「奮武」は国体不断の動態にほかならなかつた。神風連の人びとがいきどほつた維新の「未完」性とは、禁刀による士族特権の剥奪にあつたわけではなく、神武兵制への復帰といふ名目による藩閥私兵への武装集中で、全人民帯刀といふ一君万民的平等の可能性、国体の実が断たれたことであつた〉

神風連の人びとは、「皇軍」の美名によって、藩閥の私兵が建設強化されようとしていると見たのです。神谷氏は、藩閥の私兵化の結末について次のように書いています。

「神風連の人びとをたたきつぶし、維新の名において第二の刀狩りを強行した山県らの末裔が、七十年後の戦時下になつてまことにあつかましくも、刀剣ならぬ竹槍を婦女子にまでもたして、攘夷──本土決戦で玉砕させようとしたのであつた」

つまり、強兵化は維新の理想を裏切る藩閥支配の強化とともに進められ、皇軍意識もまた藩閥支配に利用されていたということです。

荒木貞夫によって皇軍意識が急速に浸透していった時代とは、昭和維新運動が高揚した時代です。そこには、「未完」の明治維新という認識と、政治を壟断する新たな権力に対する強烈な批判が存在していました。

昭和七年の血盟団事件、五・一五事件に続いて、昭和八年七月には天野辰夫、前田虎雄らによるクーデター未遂「神兵隊事件」が起きました。「神兵隊」という名称は、正志斎の詩に「神兵之利」とあり、『神論』に「天神之兵」とあるのに基づいて、前田がつけたとされています。

権力への抵抗を試みた維新陣営が本来の皇軍意識を追求しただけではなく、大東亜戦争に至る政治を指導した権力側もまた皇軍意識の発揚を求めました。しかし、彼らは明治四年前後から始まる皇軍意識の歪みを引きずっていたと見ることもできます。

戦前の皇軍が、非常時という状況によって、あるいは権力側の思惑によって歪められていたということを認識した上で、天つ神の命に支えられた皇軍の本来の価値を考える必要があるのです。

正志斎が「國體 中」の末尾に書いた「兵はかならず天つ神の命を受け、天人一体、億兆一心、祖宗の徳をあらわし」という言葉に耳を傾けるべきです。

前回、正志斎の最終的な目的は攘夷自体にはなく、わが國體の尊厳を守ることにあったと書きました。さらに進んで、正志斎は「文を揆り武を奮ひ、四表に光被す(四海の外まで輝かし及ぼす)」というわが国の崇高な使命を説いていました。

わが国で「武」と「建」が同意同義に用いられてきたことに示される通り、わが国において、「武」は建設的な意義を持ってきました。戦後平和主義によって固められた「武=悪」のイメージから脱却し、正志斎が「四表に光被す」という使命と不可分のものとして「武」をとらえていたことの意義を改めて考えるときです。