維新の原動力となった『新論』の國體思想(『月刊日本』平成26年12月号)

教育者・会沢正志斎

新論⑤『新論』において、会沢正志斎は室町幕府などの武家政権を厳しく批判しつつも、徳川幕府を明確に否定することはありませんでした。ところが『新論』は、討幕運動を展開した幕末の志士の聖典となり、「憂国の士にして本書を懐中にせざる者なし」と言われるまでになるのです。

文政八(一八二五)年に『新論』を書き上げた正志斎は、その一部を丁寧に浄書し、翌年第八代藩主斉脩(哀公)に献じました。ところが、哀公は「この書の内容には、見るべきものがあるが、時事を痛論して、論旨余りに激烈に過ぎるから、幕府の忌諱に触れる恐れが十分にある。したがって公刊は見合せるが宜しからう」と注意したのです。その結果、『新論』は公刊されることなく、一部の人々の間に伝写されるにとどまっていました。

『新論』成稿からおよそ二十年を経た弘化元(一八四四)年、第九代藩主斉昭(烈公)が幕府から七ヶ条の嫌疑をかけられて隠居・謹慎を命じられ、正志斎も蟄居を命じられます。五年後の嘉永二(一八四九)年に烈公が復帰すると正志斎も赦免されましたが、その間、正志斎の門人たちは、『新論』を無名氏著として刊行していたのです。『新論』が正志斎著として正式に刊行されたのは、成稿から三十二年後の安政四(一八五七)年八月のことでした。

しかし、正式の刊行に先立ち、『新論』は志士たちに強い影響を与えていました。それは、正志斎が私塾での教育に力を入れていたことと深く関わっています。正志斎は、すでに文化元(一八〇四)年、わずか二十三歳にして、第七代藩主治紀の子息たちの教育に携わっていました。烈公の教育を開始したのは、その二年後のことです。江戸から水戸に戻った文政三(一八二〇)年には、私塾を開いて一般士庶を教育するようになり、天保元(一八三〇)年には、私塾に「南街塾」の看板を掲げたのです。

弘化三(一八四六)年に謹慎処分で弘道館教授頭取を辞した際に、いったん「南街塾」を閉じましたが、嘉永二(一八四九)年に再開し、以後教育に専念するようになります。

久留米藩に広がった水戸学の波紋

幕末の久留米藩士として先駆けて水戸に遊学したのは、木村三郎でした。天保十二(一八四一)年、彼は水戸に遊んで「南街塾」で学び、久留米に戻ると私塾「日新社」を開いて子弟の教育に当りました。この木村と刎頸の交りがあったのが、真木和泉です。

「悠久の大義を伝える崎門の学」(平成二十五年五月号)で書いた通り、真木は若き日に崎門派の宮原南陸の子桑州に師事していました。『真木和泉守の研究』を著した小川常人は、真木の学問に浅見絅斎、若林強斎の思想が流れていたと推知されると書いています。

君臣の大義、内外の別という崎門の思想を把握していた真木が、木村から『新論』を示され、正志斎の真価を聞くにおよび、遊学の機会を逃さなかったのは当然のことです。木村は次のように書き残しています。

「余、嘗て北陸諸州に游び、水戸の会沢翁に親炙し、翁著するところの國體論を読みて大いに感発するところあり、携へ帰りて以て保臣(真木=引用者)に示す。保臣、一読三歎、奮然として水戸に游び、翁の門に入る」

弘化元(一八四四)年四月、真木は江戸赤羽の水天宮参詣を口実にして江戸に赴き、七月に水戸に入りました。水戸滞在はわずか一週間でしたが、正志斎に四度面会しています。真木が正志斎を敬慕するようになったのは言うまでもありません。彼が相手を「先生」と呼んだのは、ほぼ正志斎に限られていたといいます。小川常人は「彼が一読三歎して以来、常に新論を翫味推称して生涯渝らなかった事実は、かくして明らかであらう。/新論を初めその他の著述を通じ、更に水戸に遊んで直接、正志斎に師事することによつて彼が水戸学の本質に触れ、之を継承することによつて己の立場を不抜たらしめ、之を継述して生涯を貫いたことは、略明かになつた」と書いています。

真木の水戸遊学を契機として、久留米藩では天保学が活発になりましたが、既存の学問を守ろうとする勢力は過剰な反応を示しました。明善堂助教の本荘一郎は、弘化二(一八四五)年十一月、藩主有馬頼永に上書して概要次のように訴えました。

水戸は名君も多く、格別の国風で学術もよろしいという評判であるが、最近は過激で、功名を求める弊害があるとさえ批判されている。もし久留米藩の初学の人々がこの水戸学を学んだら、温恭直誠の行いを失い、惰慢の風に陥り、教化の妨げとなり、風俗を害することになるだろう。このような学問が盛んになって藩学に入り、あるいはまた有司の人々がこの学風に染まることになれば、ついには政治に弊害を及ぼす結果となるから、この勢いが強まる前に是非禁止をし、必ず撲滅してしまわねばならない、と。

この本庄の主張に対して、水戸学派の指導者の一人池尻茂左衛門は直ちに上書して、水戸学派だけを弾圧することは不当だと訴え、むしろ水戸学派の指導者達を格別に抜擢すべきだと説きました。真木もまた、水戸学擁護の文章を書いて、学問の在り方を論じました。さらに、野崎平八が公平な立場から水戸学擁護を唱えたことによって、水戸学は弾圧、禁止の難を免れたのでした。

ところが、水戸学派の主張に理解を示していた藩主頼永が弘化三(一八四六)年六月に死去すると藩内の抗争が激しくなり、ついに嘉永五(一八五二)年の藩獄を機に、水戸学は弾圧されることになります。この結果、真木は水田村にあった、実弟大鳥居啓太方の住居山梔窩に蟄居することになりました。

「皇国の皇国たる所以」に覚醒した吉田松陰

吉田松陰が、平戸で葉山高行(佐内)から『新論』を借りて読んだのは、久留米藩内部の抗争が激しさを増していた嘉永三年のことです。正志斎に会うことを熱望するようになった松陰は、神道無念流の剣客で、藤田東湖と深い関係にあった斎藤弥九郎を訪ねます。そして、斎藤の人脈によって、松陰は水戸の永井政介を紹介されたのです。嘉永四(一八五一)年十二月十九日、松陰は水戸を訪れ、翌年一月二十日まで滞在します。

松陰は正志斎とは六回、豊田天功とは四回会談しています。一月十七日の日記の中で、松陰は、正志斎が七十一歳の高齢にもかかわらず矍鑠たること、訪問の度に酒をもてなしてくれたことを記し、さらに次のように書いています。

「水府の風、他邦人に接するに、款待甚だ渥く、歓然として交欣、心胸を吐露して陰匿する所無し。会談論の聴くべきもの有れば必ず筆を把りて之を記す。是れ其の天下の事に通じ、天下の力を得る所以か」

嘉永五年八月頃、松陰が来原良蔵に送った書簡には、正志斎との出会いによる國體思想への目覚めが明確に表現されています。

「客冬水府に遊び、首として会沢・豊田の諸子に踵り、其の語る所を聴く。輙ち嘆じて曰く、身、皇国に生れて、皇国の皇国たる所以を知らざれば、何を以て天地に立たんと。帰るや、急に六国史を取りて之を読み、古聖天子の蛮夷を摂服せしめらるるの雄略を観るごとに、又嘆じて曰く、是れ固より皇国の皇国たる所以なりと」

名越時正は、「水戸遊学の結果、松陰は皇国の國體に基いて、兵学者としての使命を果すことを覚ったのである。ここに松陰の学問は大きな飛躍を遂げる。……松陰は『我國體の外国と異なる所以の大義』を明かに知ることができたであらう」と指摘し、そのことは、水戸遊学以前にある人から「御藩之人ハ日本之事ニ暗シ」と批判されて、藩名を汚したことを深く恥じた松陰が、その汚名を完全に雪ぐことでもあったととらえています。

一方、西村文則は、正志斎と出会った松陰が「会沢先生は人中の虎なり」とまで語るに至った事実を指摘した上で、「若し維新回天の偉業に、松陰の指導精神ありとせば、其には水戸学の皇道精神、会沢翁の指導原理も流れてゐたであらう」と評しています。

来原宛て書簡にある通り、松陰は萩に戻ると『六国史』(日本書紀・続日本紀・日本後紀・続日本後紀・文徳実録・三代実録)など、国史を貪るように読んでいます。「松陰は一回きりの歴史的事実にこそ、全人格的なものが啓示されていることを直感した」と橋川文三が書いた通り、松陰にとって水戸学との出会いは「歴史の発見」だったのです。近藤啓吾先生は次のように書いています。

「わが国の歴史を知り、わが国の國體を自覚して始めて自己の生命の中に流るる国恩を思ひ、『感激ノ心悠然トシテ興リ、報効ノ心勃然トシテ生ズル』を覚える。松陰が……君に事へて遇はざれば、諌死するも可、幽囚するも可、饑餓するも可なりと説いたのはこの為めであり、而してこれは、わが国の國體と、禅譲放伐相継いだ漢土の國體との相違に思ひを致す時、一層顕著たらざるを得ない」

松陰は安政元(一八五四)年三月、下田で密航を試みて捕えられます。それを自ら振り返った『幽囚録』では、勢いが盛んであった皇朝の歴史に触れ、蒙古襲来など「古来三度の変動」を提示し、「外国人の前に膝を屈し、首をたれて、そのなすがままに任せている」現状を歎き、次のように書いています。

「近世輿地を論ずるもの、或は曰く、山東(関東)に非ざれば以て天下を制すること無しと、これ徒に平・源氏以還(このかた)衰世の跡を知りて、古昔神聖(古の聖天子)雄略の由(次第)を知らざるものなり、古昔神聖常に雄略を存し、三韓を駆使し蝦夷を開墾したまひ、固より四夷を包括し八荒を併呑したまふ志ありき」

これもまた、来原宛て書簡にある「古聖天子の雄略」を説いたものにほかなりません。「興亜論の源流─正志斎が志した『光被四表』」(十月号)で説明した、「皇道を世界に布く」という正志斎の崇高な使命感を、松陰もまた共有するに至ったと考えることができます。

下田密航によって捕えられた松陰は江戸・小伝馬町の牢を経て、安政元(一八五四)年十月二十四日に萩の野山獄に収監されます。このとき、松陰は同囚の人に孟子を講じています。それをまとめたのが、『講孟箚記』であり、そこには松陰の國體観が示されています。

「道は天下公共の道にして所謂同なり。國體は一国の体にして所謂独なり。君臣・父子・夫婦・長幼・朋友、五者は天下の同なり。皇朝君臣の義、万国に卓越する如きは、一国の独なり」

また松陰は、「道は天地の間一理にして、其の大原は天より出づ、我と人との差なく、我が国と他の国との別なし」とする山県太華の説のように、皇国の君臣を漢土の君臣と同一に論ずることは、「余が万々服せざる所なり」と書いて、わが国の君臣の大義を称揚しています。

さらに安政二年に作った「士規七則」の第二条には、「凡そ皇国に生まれては、宜しく吾が宇内に尊き所以を知るべし。蓋し皇朝は万葉一統、邦国の士夫世々禄位を襲ぐ。人君は民を養ひて、以て祖業を続ぎたまひ、臣民は君に忠して、以て父志を継ぐ。君臣一体、忠孝一致、唯だ吾が国を然りと為す」とあります。松陰の國體観の確立です。

水戸学的限界を乗り越えた松陰

松陰は、野山獄において同囚に講義をするだけではなく、自らも膨大な書物を読破していたのです。『野山獄読書記』によると、松陰が獄中で読んだ本は、出獄して杉家に移されるまでに約五百冊にのぼります。その分野は広範ですが、その中で注目されるのが、水戸学関係の書籍です。松陰は、正志斎の『草偃和言』、『迪彝篇』、『下学邇言』、東湖の『弘道館記述義』、『常陸帯』、『東湖詩鈔』などを読んでいます。

水戸学に傾倒していった松陰が、その源流でもある崎門学に向かったのは自然な流れです。後期水戸学の祖藤田幽谷は、栗山潜鋒の『保建大記』から強い影響を受けていました。もちろん『新論』にも『保建大記』の影響を窺うことができます。そして、松陰は『保建大記』と向き合い、『講孟箚記』にも「保建大記を読む」を収めています。さらに松陰は浅見絅斎の『靖献遺言』に強く動かされます。それを示すのが、同囚の富永有隣に松陰が語った次の言葉です。

「靖献遺言の一書、読む者をして勃然沛然、忠義の心を興起せしむ。其の吾が党を益すること、豈浅鮮ならんや。……昨此の書を借り、反覆手を釈くに忍びず、声を抗げて誦読し、傍らに人無きが若し。今、試みにこれを老兄に示す。老兄これを読めば、亦た必ず感発する所有らん。寅(松陰)願はくは預り聞かん。寅の老兄と、日に語言を交ふると雖ども、未だ肺肝互瀝するを得ず。且つ此の書に因りて以て高意を候はん」

近藤啓吾先生が指摘されているように、松陰は野山獄で『靖献遺言』を読了し、その感動を「詠史八首」と題して、『靖献遺言』の人物八人を詠じた古詩を作っています。松陰は、『靖献遺言』で固めた梅田雲浜と同様に、「節に死する」覚悟を培ったに違いありません。

そして、松陰が討幕論を固める上で決定的な影響を与えたのが、勤皇僧・宇都宮黙霖との交流です。安政二(一八五五)年九月十二日以来、のべ二十六回にわたる往復書簡のやりとりの末、松陰はついに黙霖に降参し、討幕論に転じていったのです。松陰は「一友(黙霖)に啓発せられ、矍然として始めて悟る、従前天朝を憂いしは、並に夷狄に憤をなして見て起せり本末既に錯う、真に天朝を憂うるに非ざりしなり」(「又読七則」)と書いています。

金城学院大学准教授の桐原健真氏は、この松陰の「転回」を水戸学から国学への「転回」と解釈していますが、張惟綜氏は次のように主張しています。

「彼(松陰)は儒学における普遍的な道と訣別して日本固有の道だけを重視するに至ったのではなく、儒学における普遍的な道を重んずる点は変わることなく、むしろ儒学的な道の顕れという意味において日本固有の道の優位性を見いだし、強調してさらにそれを信奉するようになった、という解釈が妥当ではなかろうか」

ここでは、松陰自身が「本居学と水戸学とは頗る不同あれども、尊攘の二字はいづれも同じ」と書いていた事実に注目しておきたいと思います。

松陰が討幕に向かうには、水戸学の立場を乗り越える必要がありました。御三家の一つとしての水戸家の立場から、反徳川という一線は越え難いものだったからです。ただ、天皇の絶対的権威を強調した水戸学自体に、幕府を相対化する考え方が含まれていました。松陰は尊皇を突き詰め、水戸学的限界を乗り越えていきます。

安政五年七月、幕府が勅許を得ずに「日米修好通商条約」を締結するに至り、松陰は「征夷大将軍は天下の賊なり。今措きて討たざれば、天下万世其れ吾れを何とか謂はん」と述べるのです。そして、これ以降、松陰は間部詮勝暗殺計画など直接行動を計画するに至ります。結局、安政六(一八五九)年十月二十七日、松陰は斬首刑に処され、わずか三十年の生涯を閉じるのです。

正志斎─真木─松陰を繋ぐ楠公精神

松陰が非業に斃れた後、全国の尊攘派を指導せんと立ち上がったのが、真木和泉です。彼は松陰が斬首刑に処されてから二年を経た文久元(一八六一)年、『経緯愚説』で「宇内一帝を期する事」と題して以下のように書いています。

「祈年祭祝詞の中、皇大神宮に奉告詞に、狭国は広く、嶮国は平けく、遠国は八十縄打ちかけて引き寄する事の如くとある。即、天祖(天照大御神)の神慮にあらずや。然ればこそ、古昔の御門は、蝦夷は云ふもさらなり。粛慎・勃海・三韓・琉球まで、皇化を敷き給ひ、中古までも、坂上田村丸は日本中央の石を奥州南部の辺地に建てたりといへり。勿論、我天津日嗣は宇内盡くうしはき給ふべき道理なり……固より我国は大地の元首に居て、地理を以ても四方に手を展ぶるに甚便なり。一世にては成就すまじけれど、今日より始めて其規模を定め、東より西よりいづれにても其宜に従ひ事を挙げて、遥に、天祀並列聖の御志を遂げさせ給ふこそ、我天子の孝とも申べき事なれ」

この真木の言葉は、「古聖天子の雄略」を説いた松陰の言葉に通じ、そして『新論』冒頭「神州は太陽の出づる所、元気の始る所にして、天日之嗣、世宸極(皇位)を御し、終古易らず、固より大地の元首にして、万国の綱紀なり。誠に宜しく、宇内を照臨し、皇化の曁ぶ所、遠邇(遠近)有ること無かるべし」ときれいに響き合っています。

國體に対する誇りが真木の尊攘運動の基盤となっていたことは疑いのないところです。翌文久二(一八六二)年二月十二日、真木は、謫居していた水田の山梔窩をひそかに抜け出しました。そして、有馬新七らの薩摩尊攘派ととともに佐幕派の関白九条尚忠、所司代酒井忠義殺害の計画を立てましたが、寺田屋の変で鎮圧されてしまいます。

それでも真木は挫けず、松下村塾で学んだ久坂玄瑞らと連携を深めていきます。文久三年一月に赦免されると、長州を中心とする尊皇攘夷運動の高まりを背景として、天皇による攘夷親征の実行(大和行幸)を企て、八月十三日に大和行幸の詔が発せられました。しかし、薩摩藩・会津藩を中心とする公武合体派は朝議を覆し、長州藩と急進派公卿を朝廷から追放してしまうのです。三条実美ら七卿と共に長州へ逃れた真木は、三田尻御茶屋の一角「招賢閣」を拠点としました。

朝廷奪回を決意した真木は、元治元(一八六四)年一月三日、三田尻参集の尊攘派志士に対して「三田尻招賢閣掲示」で日課を示し、栗山潜鋒の『保建大記』、浅見絅斎の『靖献遺言』とともに『新論』の講習を命じていたのです。しかも、真木は尊攘派から期待をかけられていた毛利慶親への上書「興国新策」では、「学問にて士夫を養はんと欲せば……新論の國體三篇を土台として、皇朝史略を素読させ」と『新論』の講習を説いていたのです。真木はわが國體の尊厳を終生『新論』に求めたのです。

久坂玄瑞らとともに浪士隊清側義軍の総管として長州軍に参加した真木は、元治元年七月十九日、堺町御門を目指して進軍しました。しかし、福井藩兵などに阻まれて敗北、天王山に退却し自刃しました。

小川常人は、正志斎の『新論』による思想的指導が、真木によって幕末における政治的指導に飛躍されたとし、次のように書いています。

「新論が和泉守によって終始愛読され、正志斎の思想が和泉守によつてつぶさに継承されたとすれば、それは日本思想史上の一大偉観であり、継承相嗣の卓越せる典型と申してよいであらう」

維新の成就を見ることなく斃れた松陰と真木の行動を貫いたものは、楠公精神にほかなりません。真木は、正志斎と対面した三年後の弘化四(一八四七)年五月二十五日から毎年楠公祭を営み、喀血した時も止めませんでした。そして「ゆめ吾子孫たるもの楠氏の三世義に死して、心かはらぬあとな忘れそ」と言い残しています。

松陰は、正志斎を訪ねた嘉永四(一八五一)年、湊川で楠公の墓に拝し、碑の拓本二枚を求め、「道の爲義の爲 豈名を計らんや 誓って斯の賊と 生を共にせず…」と詠んでいます。

これに先立つ天保五(一八三四)年に、「楠氏の子孫、宗族、正行、正家、正朝、正高等を始として、相踵て義に死し、命を塵芥よりも軽くして、忠烈の気、天地に塞る」と書いたのは、会沢正志斎その人だったのです。(完)

次回から頼山陽『日本外史』に移ります。