興亜論の源流─正志斎が志した「光被四表」(『月刊日本』平成26年10月号)

肇国の理想の命ずる世界皇化

新論③近隣諸国に対して「攘夷」を唱える論調が近年増えつつあるように感じますが、その「攘夷」が國體観にどれほど根差したものであるかが、問われなければなりません。

会沢正志斎の『新論』最終章「長計」を読む時、彼の究極的な目的が攘夷にはなく、わが國體の尊厳を守ることにあったことが明瞭になります。しかも彼は、肇国の理想が求める「八紘為宇」に基づいて、わが国の崇高なる使命をはっきりと語っていました。

「夫れ太陽の余光の被るところは、すなはち仁人博愛の曁ぶところにして、四海万国といへども、また人類にあらざるなし。しかるに妖教の滋蔓して、天倫を棼乱し、人紀を泯滅し、元元をして蠱惑沈溺し(たぶらかして夢中にさせ)、相率ゐて禽獣となり鬼蜮とならしむるは、豈に仁人の視るに忍ぶところならんや。故に覆幬して(天が広く覆い照らす)外なく、夏を以て夷を変じ、天人をして胡羯の誣罔より免れしむるは、固より仁人の志にして、文を揆り武を奮ひ、四表に光被(四海の外まで輝かし及ぼす)して、以て散光を覲し大烈を揚ぐるは、仁人の業なり」

欧米列強のアジア進出に強い危機感を抱いていた正志斎は、「長計」において欧米列強が今や大いに非望を逞しくし、人の国を奪おうとしていると批判しました。そこで、欧米列強を打ち払うだけではなく、欧米列強自体を変革しなければ、逆にわが国が列強に変革させられてしまうと警告したのです。さらに進んで、わが國體を守り、磨くだけではなく、皇道を世界に及ぼし、人類全体の幸福を追求することが日本人の使命だと訴えたのです。

正志斎は以下のように表現しています。

「今、一定の策を画し、不抜の基を立てなば、必ずまさに内は中国より、外は百蛮に曁び、上は太初に原づき、下は無窮を要め、神聖の彝訓に遵ひ、東照の大烈を紹ぎ、謀を孫子に胎し、継継承承し、千万世も一日のごとく、必ず四海万国を塗炭に拯ひ、天地の間をしてまた西夷の妖教あるなく、中原の赤子をして、永く胡羯の欺罔を免れしめて、然る後に已むべし」

『新論の思想と政策』(昭和十八年)を著した塚本勝義は、皇道を世界に布くことが皇国の肇国以来の国是であることを正志斎は明言していると評しました。さらに塚本は、正志斎が外夷の非望を撃破するのも、妖教の克服に努めるのも、単に自国の保全を図るとか、自国だけを清くするとかいうような狭隘な考えに基づくものではなく、祖国本来の本質を闡明し、その使命を自覚させ、八紘一宇の国是を実現し、世界万国を正しい姿に回帰させるところにあるのだと力説し、「皇国の国策の根本は、君臣の大義、父子の至親を根幹とする皇国の道の世界宣布、即ち道義世界の建設に存するのである」と書きました。

また、國體論史の研究者清原貞雄は、正志斎は消極を排してどこまでも積極的に出で、ついにはわが朝廷の稜威を世界に拡充し、近くはアジアの盟主、遠くは世界の盟主となる事を理想としたと評しています。

実は、世界皇化、道義世界の建設という正志斎の主張は、後期水戸学に共通するものでした。例えば、藤田東湖は『弘道館記述義』において、次のように書いています。

「嗚呼、聖子神孫、克く其の明徳を紹ぐ。公卿士庶、皆な其の鴻恩を体す。惟れ孝、惟れ教、以て広く威霊を推す。則ち豈に啻に大八洲の民、無彊の化に浴するのみならず、絶海遠洋の外、蠻夷戎狄の郷、亦た將に我が徳輝を慕ひ、我が餘光を仰がざる無からんとするは、豈に盛んならざらんや」

正志斎や東湖の壮大な理想は、師藤田幽谷の志を受け継ぐものでした。幽谷が文化五年正月に詠んだ七言律詩には、「須らく万国をして皇朝を仰がしむべし」とあったのです。つまり、興亜論の基礎ともなる世界皇化論は、正志斎のみならず、幽谷を祖とする後期水戸学に共通する特徴だったのです。

高須芳次郎は、昭和十七年に刊行した『日本精神とその展開』において、「皇道に基づく興亜思想の発展」の一章を割き、「幽谷、東湖、正志斉」の節を立てて興亜思想の源流として三者の思想を称揚しています。一方、早稲田大学教授を務めた内田繁隆は昭和十九年に著した『日本政治学大綱』において、「水戸学派の宇内一家論」と題して正志斎と東湖の主張を取り上げています。内田は、正志斎や東湖の主張を「皇化主義を主とする四海一家の理念」と位置づけた上で、「水戸学派における肇国理念の復興」だと称えました。

正志斎の世界皇化論は、明治維新後の興亜論者たちに継承されていました。例えば、近代興亜思想の先覚荒尾精は『対清弁妄』(明治二十八年三月)において、次のように書いています。

「我国は皇国也。天成自然の国家也。我国が四海六合を統一するは天の我国に命ずる所也。……苟くも天日の照らす所、復た寸土一民の 皇沢に浴せざる者なきに至らしむるは、豈に我皇国の天職に非ずや。豈に我君我民の 祖宗列聖に対する本務に非ずや」

荒尾精の思想的影響を受けた興亜陣営の精神的支柱頭山満は、「日本の天皇道は只に日本国を治め大和民族を統べ給ふのみならず、実に全世界を救ひ大宇宙を統ぶるものだ。而かも日月の普きが如く、偏視なく所謂一視同仁じや」と述べていました。

さらに、戦前に世界皇化の理想を追い求めた今泉定助は、「彼より我が徳を慕ひ風を望み、我が威厳を仰ひで助成を乞ひ、我の擁護を求めて統一を望み、我に心服し、我に同化し来るものを統一主宰する」ことを理想として掲げていました。

大東亜戦争勃発直前のわが国においては、こうした興亜思想が政府の公式見解となっていたのです。例えば、昭和十五年に内閣情報部が編纂した『聖戦の意義』は、興亜の大業はわが肇国の大理想であることを深く認識しなければならないと説き、次のように書いていました。

「わが生成発展なるものは徳治の生成発展の意に外ならない。換言すれば道の国、皇道国家の完成に向ふ生成発展である。而してこの事たるや、積極的に、世界に道を布き、世界を徳化し、世界の文化を向上することを意味する」

つまり、『新論』「長計」に示された正志斎の皇化論は、国学派の世界皇化論とともに、皇化主義的な興亜思想の源流となったのです。

「東方性」に基づいたわが国の尊厳

正志斎は『新論』において、わが国は「世界の首」だと主張して國體の尊厳性を説きました。

「およそ物は、自然の形体ありて存せざるはなし。而して神州はその首に居る、故に幅員甚しくは広大ならざれども、その万方に君臨する所以のものは、未だ嘗て一たびも姓を易へ位を革めざればなり。西洋の諸蕃は、その股脛に当る、故に船を奔らせ舸を走らせ、遠しとして至らざるはなきなり。而して海中の地、西夷、名づけて亜墨利加洲と曰ふものに至つては、すなはちその背後なり」

この言葉に示されているのは、塚本勝義によると、大地は渾然としてまとまりがないように見えるが、あらゆるものには自然に備わった形体があり、統一が保たれているという事であり、世界を統一体、生命体と理解する思想です。正志斎は、統一体には、その存在を生命体として成り立たせる中心が存在し、それによって構成要素である部分が存在するという考えに基づいて、わが国を世界の首だと説いたということです。

金城学院大学准教授の桐原健真氏が指摘している通り、日本が「大地の元首」であることは、「万方に君臨する」理由ではなく、日本が「四方に君臨」する理由は、「易姓革命」が存在しなかったという歴史性のうちに見出されています。しかし、正志斎が弘化四(一八四七)年に起稿した『下学邇言』では、わが国の尊厳性が「東方性」に求められているのです。

「一君二民は、天地の道なり。四海の大、万国の多きも、而して其の至尊たる者、宜しく二有るべからず、東方は神明の舎にして、太陽の生るる所……元気の発する所、時に於ては春と為す。万物の始まる所なり。而して 神州は大地の首に居る。宜しく其の万国に首出し、四方に君臨すべきなり。故に 皇統綿々として、君臣の分、一たび定まりて変ぜざること、太初より以て今日に至る。天位の尊、自若たるなり。此れ万国の未だ嘗て有らざる所。何となれば、則ち天下の至尊は宜しく二有るべからざればなり。而して所謂る一君二民の義、其れ誰れか得て之れを間せん」

『新論』「長計」においては、わが国の人倫が明らかな理由を「気」から説明しています。

「夫れ神州は大地の首に位す。朝気なり、正気なり〈神州は本、日神の開きたまひしところにして、漢人、東方を称して日域となし、西夷もまた神州及び清・天竺・韃靼の諸国を称して、亜細亜と曰ひ、また朝国と曰ふ。皆、自然の形体に因りてこれを称するなり〉。朝気・正気はこれ陽となす、故にその道は正大光明なり。人倫を明らかにし以て天心を奉じ、天神を尊んで以て人事を尽し、万物を発育して以て天地の生養の徳を体す。夷狄は四肢に屏居し、暮気なり、邪気なり。暮気・邪気はこれ陰となす、故に隠を索め(隠微な理を探し求め)怪を行ひ(怪しく偽る行動をとり)、人道を滅裂して、幽冥の説をこれ講ず。天に褻れ鬼に媚びて、荒唐の語をこれ悦び、万物を寂滅して、専ら陰晦不祥の塗に由る」

正気の国は五倫が明らかで、偏気の国は明らかではないという正志斎の主張は一貫したもので、彼は『読直毘霊』などでもそうした論理を展開しています。この正志斎の論理について、立命館大学教授の桂島宣弘氏は次のように指摘しています。

〈この論理から想起されるのは、元来の朱子学の理気論に備わっていた差別性の論理である。周知の如く、朱子学の「理」とは「天地万物の各々に同一の性を与える原理(法則=理性)であり、『気』なるものはそれに差別の相を賦する原理=原因である」、「萬物は一理を根源とするといふ意味に於て平等であるが、気の作用によって差別相が生ずる」。会沢の説く「正気」「偏気」の別とは、この気の差別相に基づく主張であることは明らかである〉

こうした正志斎の主張は、幕末の志士たちに継承されていきます。真木和泉は、「我国は大地の元首に居て、地理を以ても四方に手を展ぶるに甚便」(『経緯愚説』)と、また幕末尊皇論に影響を与えた大橋訥庵は「我神州ハ東ニ位シ、朝陽鬱勃ノ気ヲ鐘メテ。勇悍果鋭ノ国」「戎狄ハ西陲ニテ、陰気ノ凝レル処ナレバ、狐疑険譎ノ念深ク」(『闢邪小言』)と書いています。

正志斎は、欧米列強の思想的脅威に直面し、わが国の尊厳性を近隣諸国にも理解されうるものとして提示するために、朱子学の論理を援用したと見ることもできるかもしれません。

「気」に基づくだけではなく、正志斎は易経に基づいて自らの論理を展開しようとしました。『下学邇言』では、「『易』〔「復卦」〕に曰く、「遠からずして復る。悔いに祗ること无し」と。一陽来復は震の初に在り。以て天地の心を見る。震は東方たり。帝は震に出で、万物の生るる所」と書いています。「震」は八卦の一つで、活動しようとする象で、方位は東、四季では春に当たります。桐原氏は「東方」である「神明の舎」の日本が、その「東方」性ゆえに有する「震」の卦の属性のために「正気」を稟け、「君を尊し父を敬ふの礼、天地と与に始まりて、天地と与に同じく無窮に垂れ」るような「君臣父子の大倫の正しき」国となり、ついには「四方に君臨」することを約束する、と正志斎の論理を整理しています。さらに、図式化すれば、神州=皇祖神の生まれた国=「神明の舎」=「東方」=「震」=天帝の出づる所・万物の始まる所=正気の発する所=君臣父子の大倫の正しき所・五倫の正しき所=万国に比類なき国=四方に君臨すべき国──という等式が成り立つと指摘しています。

わが国の尊厳性を「東方性」に見る視点は、江戸中期の天文学者西川如見にも顕著に見られるものでした。『日本水土考』において、五大洲を第一界(亜細亜・欧羅巴・利未亜)、第二界(亜墨利加)、第三界(墨瓦臘尼─南半球の高緯度地域にあると推測された大陸)に分け、第一界が「水土の正」として最も優れていて、その中でも亜細亜が第一だとしました。如見は、亜細亜の中で、日本は万国のどれよりも東にあって、まず朝日を受け、陽気発生の最初の地であり、豊穣の地だと説いたのです。

正志斎が着目した「東方性」は、古代から脈々と受け継がれてきた考え方でもあります。前漢の武帝時代に、淮南王劉安が編纂した『淮南子』「地形」には、「海外に三十六国ある。……東南から東北へかけて、大人国・君子国・黒歯の民・玄股の民・毛の民・労の民がある」と書かれています。ここにある「君子国」を、我々はわが国のことだと解釈してきたのです。

一方、『論語』「子罕第九」には、「子、九夷に居らんと欲す。或人曰く、陋しいこと之を如何。子曰く、君子之に居らば、何の陋か之あらんと」とあります。日本人は、孔子までもが、君子を戴くわが国に一目置いていたと解釈したのです。昭和十五年には、原重治が『興亜の理念 論語新説』において、「支那民族は遂に孔子の道──五倫五常を信順するに至らずして斯道は我日本に伝はり皇道と合流して二千年を経歴し現時日本民族の衆業──東亜建設となつて発顕されたのである」と書いているほどです。

遡れば、すでに『続日本紀』の慶雲元(七〇四)年七月朔日条には、〈唐の人我が使に謂ひて曰はく、「亟聞かく、『海の東に大倭国有り。これを君子国と謂ふ。人民豊楽にして、礼義敦く行はる』ときく。今使人を看るに、儀容大だ浄し。豈信ならずや」といふ〉と書かれていました。

ただし、正志斎が、東方性に基づいて、他地域に対する日本の尊厳性を説くだけではなく、漢土の尊厳性をも説いていたことを忘れてはなりません。『下学邇言』では、「漢土も亦東方に在つて神州と相比隣し、神州に亜いで東海に臨む。其の教は人倫を明らかにするにあり。この彜やこの訓、帝においての訓あり。天朝 神明の訓を垂れ給ふ所以の者と期せずして相同じ。猶ほ輔車相依る勢の如し」と書いています。また、『読葛花』には、「神州漢土は東方にして陽国なれば、生養を主として陽道なり」とあります。正志斎流の「正気・偏気」論を引き継いだ大橋訥庵もまた、「我国ト漢土ノ民ハ、天地陽明ノ気ヲ禀テ、人ノ中ノ人」と書いていました。

会沢正志斎が日中連携を唱えた理由

ここにおいて改めて想起すべきは、江戸時代が華夷思想からの脱却の時代だったという事です。

華夷思想とは、徳治が行き届いている地域を「中華」とし、徳治が行き届いていない地域を「夷」(野蛮未開の地)として蔑む考え方です。夏王朝に代表される古代中国の王朝政治を理想とするところから、「夷」に対して「夏」を対置して用います。正志斎もまた『新論』の中で、「夷を以て夏を変じ」ようとしていると欧米列強を批判しました。

本連載で何度かふれてきたように、華夷思想を信奉する儒学者たちは、日本が普遍的な「中華」の内にあることを誇り、支那文化にかぶれていました。こうした支那崇拝の姿勢を乗り越えようとしたのが、水戸光圀であり、山崎闇斎であり、山鹿素行であったのです。日本こそが中華であるという主張の台頭は、漢民族=中華という考え方を動揺させた「明清王朝交代」と無関係とは思われません。一六四四年から翌四五年にかけての明の滅亡、清による中国支配の開始は、中国における華夷思想の変容をもたらしていたからです。

国際日本文化研究センター教授の伊東貴之氏が指摘するように、華夷思想自体に、元来、種族主義的な差別観を基調とする側面と、文化主義的な普遍性の要素を強調する、開放的で包容性に富んだ側面とがありましたが、清の雍正帝(一六七八~一七三五年)は、華夷の別は、地域や種族によるのではなく、中華的な文明の有無・存否に基づくと主張したのです。

桂島宣弘氏は、崎門・垂加派などの日本型華夷思想、日本中華主義的言説が、中華文明を相対化する言説であるとはいっても、中華に存在する「礼・文」を真っ向から否定するものではなかったと指摘しています。その一例として、桂島氏は、「西土を中華と云ふは、あちらこちらの取ちがへなり」とまで述べた、垂加派の佐々木高成でさえ、我彼を比較する際の基準は「人倫の道」であった事実を挙げています。

桂島氏が指摘するように、「礼・文」に基づく共通の文明基準を決定的に切り裂いてしまったのが、本居宣長でした。「現在も続く直毘霊論争」(本誌一月号)で書いた通り、『直毘霊』において「聖人の道」を厳しく批判した宣長に対して、正志斎は真っ向から反論し、「聖人の道」の普遍性を主張し続けました。正志斎はまた、「宜しく放伐の決して言ふべからざるを知るべし。然る後に孟子の言を取つて、以て堯舜・孔子の教の羽翼となさば、庶幾くば以て 神聖の彜訓を奉じて、天地の大道に倍かざらん」とも書いていました。こうした立場こそが、正志斎の日中連携論の基盤となっていたのです。

世界情勢を分析した『新論』「形勢」の中で、正志斎は「夫れ未だ嘗て回回(イスラム)、羅馬の法に沾染せざるものは、すなはち神州の外、独り満清あるのみ。ここを以て神州と唇歯を相為すものは清なり」と書いていたのです。正志斎はまた儒教文化圏にある朝鮮、安南等の諸国も「頗るよく特立し、未だ妖法に変ぜられず」と一定の評価をしていました。高須芳次郎は、こうした正志斎の興亜論について、次のように指摘しています。

〈会沢正志斎は「アジヤ人のアジヤ」を主とすべく、日支同盟論を唱えたことがある。彼は西力東漸を防ぎ、またロシヤの南下を喰ひ留めるには善隣の誼ある支那と同盟し、こゝにアジヤの勢力を固めるのが肝要だとした。この点、正志斎の主張は、全く興亜を主眼としたもので、英国の印度侵略、支那蚕食を非とし、これに対しては、好感を表してをらない〉

『新論』から強い影響を受けた平野國臣もまた、『制蛮礎策』(一八六三年)において、「今夫れ宇内に未だ耶蘇を奉ぜざるは我と清とのみ。帝祚世革の相同じからざる有と雖も地勢連隣、風気粗ぼ類す。髪眼異ならず。古来通信し固り道を同うするの国なれば、則ち相為に事を謀りて可なり」と書いています。

正志斎の時代も、そして現在も「中国では聖人の道が実現していない」と言われます。しかし、正志斎の時代も現在も「わが国では皇道が実現していない」と言わねばなりません。かといって、そのことが皇道の価値がないことを意味しないのと同様に、聖人の道の価値がないことを意味するわけではありません。

いま、西洋近代文明の行き詰まりが指摘される中で、文明転換に貢献するためには、東洋諸民族が、皇道、聖人の道など、それぞれの理想を再認識し、そこに復帰することから始めるほかありません。