皇道経済論の源流ー正志斎が説いた「天地の富」(『月刊日本』平成26年9月号)

国民経済から見た國體-藤田幽谷の『勧農或問』

新論②前回、百九十年前の会沢正志斎の警告が、新自由主義の蔓延による國體破壊に対する警告としても有効だと書きました。それは、正志斎が無防備に外来思想を取り入れることの危険性を指摘したことによるのみならず、経済の在り方が國體に及ぼす影響を深く考察していたことによるのです。

『新論』「國體」下において正志斎が扱ったのは、国民経済から見た國體という問題です。しかも彼は、商品経済の拡大という現在に通ずる問題を國體の観点から論じたのでした。

経世済民論ということで言えば、正志斎より前に、熊沢蕃山 (一六一九~九一年)や荻生徂徠(一六六六~一七二八年)といった先駆者がいます。まず蕃山は『集義和書』(一六七二年)において、次のように説いていました。

「その〔士の困窮と民の飢餓〕原因はたくさんあるが……第一には、大都市でも小都市でも河海の通路の便利な土地に都を建てると、驕奢が日々に増して防ぎ止められない。商人が富んで士が貧しくなるものである。第二には、穀物で諸物に交易することが次第に薄くなり、金銀銭だけを用いるようになると、諸物価が高値となり、天下の金銀が商人の手に渡り、大身の士も小身の士も財用が不足するものである。第三には、適宜の礼式がないときは、事が繁く物が多くなるものである。士は、禄米を金銀銭に替えて諸物を買う。米穀が低値で諸物が高値の時は、財用が足らない。……士が困窮すれば、民から取り上げることが倍にもなる。……士民が困窮すれば、工商の者は穀物に替える相手を失い、ただ大商だけますます富有になる」(伊東多三郎訳)

こう指摘して、蕃山は貨幣経済から撤退し、籾が価値の主要な基準であり交換手段であった社会制度に戻るべきだと訴えたのです。

一方、徂徠は『政談』(一七二七年頃)において、古代の聖人が建てた法制の基本は、上下万民をみな土地に着けて生活させることと、礼法の制度を立てることだが、現在はこの二つの点が欠けているために、上下が困窮し、種々の悪事も発生していると指摘しました。徂徠は、聖人が上下万民を土地に着けたのと全く反対に、上下みな「旅宿の境遇」で暮らしていると批判しました。「旅宿の境遇」とは、都会化、商業化した支配階級の生活様式のことです。そして、彼は贅沢を押える規則もないと嘆いたのです。

蕃山や徂徠が指摘した商品経済の拡大を、「國體に基づいた経済」という視点から捉えたのが、正志斎の師、藤田幽谷です。彼は『勧農或問』(一七九九年)で、敬神尊皇と一体のものとして尊重される愛民の視点から、経済の問題点を批判したのです。同書「総論」においては、土地・人民・政事を宝と位置づけ、農本の立場を鮮明にします。

「古の英雄豪傑、富国の術様々ありと雖も、皆々其の務とする所、農桑に本づかざるはなし。百工を来し商買を通じて国の利となることを謀れる類もあれど、其の本立ちての後也」

まず農業を重視し、それを確立した上で、工業や商業を発展させなければならないという考え方です。そして幽谷は、次のように愛民に則ったかつての統治を取り戻すべきであり、そのために農業重視の政策を採用すべきだと訴えるのです。

「……威義二公(徳川頼房と徳川光圀)より已来百余年来、時移り物換れば、土地・人民・政事の三宝在りはあれども、弊生じて昔の如くならざるもの多し、今明君賢相千載一時の際会にて、大に言路を開き仁政に志し、百年の積弊を振ひて、昔の純治に返さんとし玉ふ、願くは三宝を宝として、勧農の政を先きとし玉はゞ、誠に民の父母たる君子にして、庶富の業成ること、日を指して待つべし…」(表記を一部改めた)

幽谷は勧農の政治を妨げる五弊を挙げて論じました。侈惰・兼併・力役・横斂・煩擾の五つです。

侈惰の弊とは貨幣経済の発展に伴ない、農民が贅沢になって勤勉さを失ったことです。このような気風が広がる一因を、幽谷は商人や金持ちが贅沢の媒をするからだと考えました。利にさとい商人が贅沢品を作り売り出したために、次第に贅沢が世の中の風潮として蔓延したというのです。そこで、幽谷は、商人優遇を止めて、風俗を取り締まり、勧農の政策をとることが必要だと説いたのです。

「兼併」とは「富商豪民」が、収獲に比べて石高が少なく貢租の軽い田畑を貧民から買い取ったり、田畑の売買にあたって「負高」という不正な手段を用い、買主には年貢負担が軽く、売り主には重くなるように取引したりすることです。例えば、十段十石高であれば買い主に七段を渡すが石高を三石とし、残り三段を七石と届け出るといった不正です。この場合、買い主の年貢と労役などは三石分で済むのに、売り主は三段であるにもかかわらず七石分を負担しなければならなくなります。

こうした田畑の不正売買のため、土地台帳と実際の田畑の保有状態に乖離が生じ、富者はますます富み、貧民は富者に吸い取られてますます貧困になっている、と幽谷は批判したのです。ここで注目したいのは、幽谷が「聖人の法には田地の売買と云ふこと決してなし。然れども田制一変して、田地、民の私業となりし上は、売買を禁ずること一概にはなり難し」と述べ、「永代売り渡し」が、農民が本業を捨てて、末業にはしる元となったと指摘していたことです。

寛永の大飢饉を契機として、寛永二十(一六四三)年、徳川幕府は「田畑永代売買禁止令」を出して、農民が田畑を売買することを禁止しました。幕府はまた、同年「田畑勝手作禁止令」を出し、米を作るべき田畑において木綿・煙草・菜種等の商品作物を栽培することを禁止しました。ところが、実際には田畑の売買は、質流れや「譲り地」と称して行われていたのです。そして幽谷は、大化の改新後に採用された班田収受法が行われなくなったことが問題の根源だと指摘したのです。

改善策として幽谷は、検地を行って実際の土地の広狭、肥痩に応じて貢租を取れるようにすることを挙げました。これは「均田の法」と呼ばれます。またその上で「限田の法」を定めて、兼併を制限し、耕作可能な土地保有を図るべきであるとしたのです。

「力役」は、伝馬・歩夫などの夫役です。特に、田畑の所有高に比例して夫役を勤める「高掛け」のために田畑持ちの負担が大きくなっていたのです。幽谷は、この弊害を改めるには夫役を誰にでも均等に割り当てるべきだと説きました。

「横斂」は年貢の他に様々な理由をつけて課税されることです。畑で栽培する大豆・稗・荏にかける税「三雑穀切返しの法」などがありましたが、幽谷はこうした不当な貢租は全て廃止すべきだと説きました。

「煩擾」は法令が煩雑なために、余計な手間や時間がかかることです。幽谷は、無駄な法令を廃止し、法令を簡素にし、不要な役人を整理するとともに、選任や賞罰を厳正にすべきだと説きました。

結論として幽谷が唱えたのは、節約と愛民です。塚本勝義は「……近世に於ては凡ての学徒思想家が一様に農本思想を抱懐してゐた。併し夫等の人々の農本思想は、農を大本としてはゐるけれども、農民を尊重はしなかつた。然るに幽谷の農本思想は尊農であると同時に尊農民であつた」と指摘しています。

「富なるものはすなはち天地の富に因るなり」

正志斎の「國體」下は、幽谷の『勧農或問』を受け継ぐものでした。正志斎は「國體」下で、肇国以来、天皇が国民生活を重んじられた御事跡を説いて、愛民の麗しき國體であること、また臣民の生活が御恵みによってのみ初めて可能となる理由を明らかにしたのです。その冒頭、正志斎は次のように書いています。

〈天祖、丕いに民命を重んじ、肇めて蒼生の衣食の原を開きたまひ、御田の稲(神田で耕作した稲)、機殿の繭(神衣を織る殿で用いる繭)、遂に天下に遍満して、民今に至るまでその賜を受く。……元元の民は、固より血を飲み毛を茄ふの俗のごときにあらざれば、すなはち古より号して瑞穂の国と称するも、また宜ならずや。/古者、天子、嘉穀を天神に受け、以て民物を生養したまふ。その富なるものはすなはち天地の富に因るなり。後世に至りては、すなはち天下の富、稍稍に分散し、一転して武人に移り、また転じて市人に帰して、天下その弊を受くる所以のものは、枚挙に勝へず〉

同時に、富の独占に対する強い反発を正志斎は表明します。それは、すべての富は大御宝全体に対する天神からの賜り物であり、決して特定の勢力が私するべきものではないとの考え方があったからです。彼は「富なるものはすなはち天地の富に因るなり」と述べ、さらに「天下皆食むところの粟は、すなはちこれ天神の頒ちたまひしところの種なるを知るなり」とも書いているのです。

この理念に基づいて、わが国は公地公民の理想を掲げてきたのです。ところが、この理想の貫徹は容易ではありません。

「創業の世、治化なほ未だ洽からずして、朝政も時に盛衰あり、人、或は自からその富を私す。天智天皇、積弊を革除したまひ、天下に介して私地私儲を廃し、天下とその富を同じくし、大宝に至りて制度大いに備れり」

ここにある「天智天皇」云々は、大化の改新のことを指しており、「私地私儲」は豪族の私有地と私的な財産のことです。まさに、幽谷と同様に正志斎は大化の改新による公地公民の確立を高く評価しているのです。しかし、時代を経て理想からの逸脱が始まります。それを正志斎は「藤氏、権を専らにして、権勢の家は、私儲を営み私人を蓄へ、荘園天下に遍くして、その正税を出して(租税を免れて)以て王事に供するものは幾くもなきなり。しかも権勢の私人の、所謂守護・地頭なる者、また私かに財穀を儲へ、富厚世を累ね、国郡を拠有して、天下の富は遂に武人に移れり」と批判するのです。

これまで本連載で取り上げてきた國體論者は北条や足利による権力の壟断を批判していましたが、正志斎において、壟断の内実が経済的支配の構図としてより具体的に語られるにいたったのです。

そして、正志斎の時代には、商品経済の拡大によって、事態はさらに悪化に向かっていました。正志斎は〈富人に就いて乞貸(頼んで借金する)し、習ひて以て俗を成し、有邦・有土(領国を支配する大名や旗本)といへども、また給を富民に仰がざるはなし。豪姦大猾(悪賢い大富豪)、貨財の権を操り、王公を股掌の上に愚弄す。ここにおいてか、天下の富は遂に市人に帰せり〉と厳しく批判しています。

『新論』「守禦」において、正志斎は国防政策と一体のものとして具体的な経済政策を提示していますが、まず内政整備の方策として奢靡を禁ずることを挙げ、次のように書いています。

「さて一国の人々が皆奢靡にふければ、士民は貧しくならざるを得ず、風俗も頽廃せざるを得ない。…もし今、必ず奢靡との縁を切ろうと欲するなら、人々をして虚飾を捨てさせ、まことの心を尊ぶ気持を持たせるようにすることである。人々に、表面上の飾りを取り去らせたいと思うならば、あたかも同じ舟に乗って暴風にあった時のように、互いに相手を憂えあい、助け合う心を養わせなければならない」(安在邦夫訳)

そして、「生活苦を救う」方策として、為政者は、よく民産に心を配り、農民に夫役を課す場合には時を選び、租税を少なくし、土地の兼併を抑制し、田畠所有を均しくすべきだと主張しました。これはまさに、幽谷が詳しく論じたところでした。さらに、商人支配の経済を批判した上で、次のような統制策を提唱したのです。

〈「常平の倉」「平準の署」の制度は、参考にして今日でも応用すべき……政府が物価の調節権を握り、米価を安定させ、姦商達が米相場を利用して大利を貪ることなく、行商人も失業することがないようにし、上下共に利益を得るようによく導いてゆけば、大名はいうに及ばず一般の武士から農民に至るまで、米穀の貯えも豊富となるであろうし、経費も充分給することが出来るようになろう。武士と農民が共に豊かになれば、商人もまたそれに随って利益を受けるであろう。更に、政府および民間の取引きには米穀を中心とし、これに金・絹布などを併用してゆけば、米穀は社会によく流通し、一方に集中してそこで腐ってしまう心配もなくなろう。また「義社の倉」の制度に基づき、余分な古い米穀を貧しい農民に分け与えてやるようにすれば、貧民も窮乏に苦しむことがなくなり、倉には新旧の米穀を入れかえることも出来るのである〉(安在邦夫訳)

「常平の倉」とは、米価を安定させるために、貯蔵しておく倉庫で、官が相応の価格を決定して、豊年の際にはその価格で買上げ、凶年の際にはその価格で売るというしくみです。淳仁天皇の天平宝字三(七五九)年に初めて設置されました。「平準の署」とは、常平の倉を掌る役所です。

一方、「義社の倉」は、古代、備荒を目的として、穀物特に米を徴収したり、富者から寄附を得て貯蔵して置いた倉庫のことです。以上のように、正志斎の経済論は幽谷の愛民に基いた経済論の継承であり、その発想は「富なるものはすなはち天地の富に因るなり」「天下皆食むところの粟は、すなはちこれ天神の頒ちたまひしところの種なるを知るなり」という信念に支えられていました。

資本主義の超克─皇道経済論の可能性

明治二年一月二十日、「土地人民の奉還」を訴える版籍奉還の建白が長州、薩摩、土佐、肥前四藩主(毛利、島津、山内、鍋島)の連署によって提出され、正志斎の悲願は成就されたかに見えました。

ところが、明治維新後の資本主義経済の導入は、わが国特有の所有の観念を覆す重大な契機となりました。明治政府は、明治五年に田畑永代売買禁止令を解き、明治六年の地租改正で土地にも個人の所有権が存在する事を認めました。

この新たな局面で、正志斎の皇道経済論の発想は、神道霊学中興の祖・本田親徳によって復興するのです。文政五(一八二二)年一月、鹿児島藩加世田(現・鹿児島県南さつま市)に生まれた本田は、天保十(一八三九)年頃水戸に遊学して正志斎の門に入り、同十四(一八四三)年までの三年間皇学・漢学など和漢の学を修めました。さらに平田篤胤の私塾「気吹舎」にも出入りしていたとされています。正志斎と篤胤に学んだ本田は、独自の霊学思想を展開するとともに、皇道経済論に通ずる主張を展開したのです。彼は、万物が産土神の賜物であることを次のように強調しました。

「其の遠祖の代よりして、其の土を踏み、其の水を飲み、其の地の五穀を食ひ、其の地上に家居し、其の竹木を用ひ、其の金石、其の珠玉、其の布帛、其の言語、其の里風、其の気候、其の風景、其の器械、其の秣、其の魚鳥、其の海藻野菜、其の大気、其の雨露云々を、朝夕資用する物品悉く産土神の賜にあらざるなし」

そして、「然るを人々偶然の如く思ひ為し、更に其の恩徳を謝するの念なく、其の稲を食ひ、其の錦を衣て頑然とし覚らず」と、人々が産土神の賜物に対する感謝の念を忘れていることを批判しました。本田が晩年に完成した『産土百首』にも、「往き還る 足踏むごとに 産土の 神の惠みを 思へ世の人」「草も樹も 吾が産土の 御體の 御けつ物ぞと 人は知らずやも」と詠われています。

本田に師事した副島種臣の経済論もまた、王土王民論・奉還論として特徴づけられます。『副島種臣君意見書評論』(明治十六年)で、副島の社会思想は次のように紹介されています。

「夫れ民の依て以て生き、国の頼て以て立つ所のこと、皆土地なり、此の土地たる日本全体を以て保有する所にして、則ち社会の共有なり、決して一人一家の私有にあらず、今民有地、私有地、官有地等の名称あるも、其の只地面上に生ずる財物のみ所有にして、是れとて一定の法律あり、其所有権を制限して他の財産と同一なるを得ざらしむ、知るべし今の地主も亦是れ借地人たることを、人の地を借て人の国を泯絶し、人の民を憔悴す、夫れ将た之を何とか云はん」

同書は、副島の思想が「大化改新に遡る土地公有論」だと評した上で、「一家に在ては一家の親和、一村に在ては一村の親和、一国に在ては一国の親和、其親和を結合してこそ日本社会と謂ふべき」とその考え方を紹介しているのです。

やがて、本田親徳からも影響を受けた出口王仁三郎は大正維新を掲げ、「元来総ての財産は、上御一人の御物であつて、一箇人の私有するを許されない事は、これ祖宗の御遺訓と、開祖帰神の神諭に炳々として垂示し給ふ所である」と説きました。さらに、大正八年には、遠藤無水(友四郎)が『財産奉還論』を著し、土地も資本も、その他一切の財物資力も、一つとして国民の自由権に属すべきものではなく、悉く皇室の顕現に在ると主張しました。

昭和五年には、水野満年が『現人神と日本』を著し、和光同塵の皇謨を始めてから、外来文物利用の影響は國體的経済の本義を失い、ついに勢力のある者は土地、人民を私有とし、お互いに名利を争い、生活的競争をするに至ったと批判しています。水野は、この弊害を根本的に除去すべく、國體本義に基づいて根本革正的経綸が行われたのが、大化の改新だとし、明治天皇によって、報本反始の大業が成就されたと見たのです。しかし、再び弱肉強食の弊政が顕在化しているとし、大正維新の経綸として、神聖なる国運発展の経済的国家経綸を確立すべきと説きました。

やがて、昭和維新運動が昂揚すると、皇道経済論はさらに活発に唱えられるようになりましたが、大東亜戦争における敗北の結果、皇道経済学は忘却させられました。いま、資本主義の行き詰まりが指摘される中で、新たな経済学が模索されています。外来の経済学を基盤にするのではなく、皇道経済など、わが國體の示す経済論に基づいた経済学の構築が求められているのではないでしょうか。

その際、國體を尊重するならば、敬神尊皇と一体の愛民の理念、万物を天の恵みと感謝する日本人の伝統的観念が生かされるべきです。