國體を蝕む邪説の蔓延(『月刊日本』平成26年8月号)

現在に通ずる『新論』の警告

新論①国内にじわじわと浸透する外来思想によって、最後には國體が破壊され、わが国がわが国でなくなってしまう。現在の新自由主義の蔓延は、まさにそうした危機感を抱かせるに足るものです。いまからおよそ百九十年前の文政八(一八二五)年、守るべき國體の内実を示し、邪説の浸透に警鐘を鳴らしたのが、会沢正志斎の『新論』でした。彼は次のように書いています。

「内部に主と仰ぐものがないため、異物にすぐ心をひかれるのだ。……他人の説を聞きかじってはすぐこれを信じるような輩が、西洋夷狄の誇張の説を誤り聞き、盛んにこれを吹聴したり、書物を出したりして、外夷の風俗・習慣をもってわが国のそれを変えようとする者が現われたり、また珍しい物品や薬品など、人々の目を奪い、心を動かすようなものも、人々をして外夷の風俗を欣慕させるような流弊を醸し出すようになったのである。

もし、いつの日にか狡猾な西洋異人に乗ずるすきを与えて、わが愚民をたぶらかすようなことをさせたなら、まさにわが国民も犬羊の族と化し、西洋異国の風俗にそまってしまうであろう」(安在邦夫訳)

外国かぶれが極まった行き着く先の姿を、刺激的に表現しています。さらに正志斎は次のように警告しました。

今、外夷は悪計を抱いて日ごとに国境付近に出入りし、邪説の害は国内に充満して、その弊害は際限がない。夷狄をわが国に入れると、このように天下の人民は大いにさわぎ出し、みだらな者も出て来たり、人に阿る者が現れたりする、と。そして正志斎は、やがてわが国は「果して日本国なのか、あるいは明・清なのか、はたまたインドなのか、それとも西洋異国なのかわからなくなる」と警告し、四体が備わっていなければ人間とはいえないように、国には国としての体裁がなければ国とはいえない」と説きました。さらに、民心が一度異人の方に移ってしまえば、もはや一戦を交えなくても、天下はすべて夷狄の領有するところとなってしまうと警告しました。

まさに、この正志斎の言葉は、現在の新自由主義の浸透による國體破壊に対する警告として読むことができます。『新論』は単なる外国嫌い、外来思想排斥ではなく、國體護持の一念で貫かれています。その冒頭で彼は次のように書きました。

「謹んで按ずるに、神州は太陽の出づる所、元気の始る所にして、天日之嗣、世宸極(皇位)を御し、終古易らず、固より大地の元首(世界の頭首)にして、万国の綱紀なり。誠に宜しく、宇内を照臨し、皇化の曁ぶ所、遠邇(遠近)有ること無かるべし。しかるに今、西荒の蛮夷(西の果ての夷)は脛足の賎を以て、四海に奔走し、諸国を蹂躙し、眇視跛履(自分の力のほどを顧みず、無理に事を行う)、敢て上国(尊い国。日本のこと)を凌駕せんとす。何ぞそれ驕れるや」

『新論』は、「國體」(上・中・下)、「形勢」、「虜情」、「守禦」、「長計」の五論、七篇からなります。本連載で扱ってきた『中朝事実』『靖献遺言』『柳子新論』『直毘霊』『山陵志』『霊能真柱』は、いずれもわが國體の尊厳を説いていますが、國體を揺るがす西洋列強の軍事的・思想的脅威については語っていません。茨城大学名誉教授を務めた塚本勝義は、次のように『新論』の全体像をとらえています。

國體論では祖国の本質を究明し、いかなる時代においても絶対に不動不変の不易性を捉らえ、国策決定の根本方針を明示したものとみられ、次に世界の現状を説いて、比類なき國體を有する神国日本が、いかなる環境に直面しているかを明らかにした。虜情論においては、形勢論で明らかにされた海外列強の政策を確把している。そして、「祖国の不動の本質」を根底に踏まえ、世界各国の現状と政策という刻刻動き行く現実を精究し、確乎とした縦と横との根拠の上に樹立されたのが、国策論である守禦論であり、その現実国策論の根底を一歩突き込んで説いたのが長計論である。そして、塚本は次のように結んでいます。

「日本の本質を闡明し、世界の現状と列強を明らかにし、其の上に立つて日本の国策と其の国策の根底を開陳したのが新論といふことになるであらう」

 

君臣の大義と内外の別を中核とした國體思想

では、正志斎はいかにして國體観を固めていったのでしょうか。正志斎は、天明二(一七八二)年五月二十五日、水戸藩の下士会沢恭敬の長子として、水戸下谷の家に生まれました。正志斎は号で、名は安、字は伯民といいました。

先祖は水戸領内久慈郡諸沢村(現茨城県那珂郡山方町)で代々農業を営んでいましたが、父恭敬の代にようやく下士の列に加えられました。

正志斎は寛政三(一七九一)年に後期水戸学の祖藤田幽谷に入門し、國體観を培っていきます。寛政十一(一七九九)年に彰考館に入り、文化元(一八〇四)年には『大日本史』編纂に取り組むようになりました。

「君平と藤田幽谷を結んだ『保建大記』」(本誌三月号)でも書いた通り、幽谷は『保建大記』を著した栗山潜鋒から強い影響を受けていました。ここで強調しておきたのは、正志斎の思想の核心に、崎門派が重視してきた君臣の大義と内外の別があったことです。

正志斎は『及門遺範』で、幽谷について「先生春秋の王を尊び夷を攘ふの義に原づき、尤も名分を謹む。君臣上下の際、華夷内外の弁、之を論ずること極めて詳明なり」と書いています。

名越時正は、潜鋒をはじめとする前期の國體論の継承発展が後期水戸学であると主張しています。後期水戸学における徂徠学の影響を過大視するべきではないのです。もともと『大日本史』は、本紀(帝王一代の年譜)・列伝(民族や個人の伝記)のほか、志(文化史や制度史)と表(年表等)で構成される予定でした。ところが、志・表の編纂は停滞していました。

これについて、東京大学名誉教授の尾藤正英は制度史的研究を進めるための準備が、水戸藩の学者たちばかりではなく、学界全般に不足していたことに理由があったと指摘し、その欠陥は、徂徠学ならびに国学により、制度の在り方の方に学問の関心が移行させられたことと、さらにその制度の在り方を探求するために必要とされる、古典に関する帰納的・実証的な研究方法が確立されたことによって、次第に埋められていったと説きました。

これに対して、水戸史学会理事の梶山孝夫氏は、志表編纂の志を抱いていた水戸光圀(義公)が、恒例・臨時の朝儀公事に関する記事を網羅的に分類集大成した『礼儀類典』、皇子が皇太子になられる儀式に関することをまとめた『立坊儀節』、皇后に立てられる時の儀式に関することをまとめた『立后儀節』を編纂していた事実を挙げ、「徂徠→制度史→志表」という経路を強調することに反対しています。

何より、水戸学と徂徠学とが、幕府主義と中華崇拝において対極にあったことが重大です。同志社大学名誉教授を務めた今中寛司が指摘する通り、徂徠は京都を「共王の居」と、江戸を「興王の地」と表現していました。「共王」とは前朝の王、あるいは亡国の王のことであり、「興王」とは「時王」のことです。ここに徂徠の幕府主義の姿勢がはっきり示されています。

徂徠は、出自が物部氏に由来することから「物茂卿」と称していましたが、ここに徂徠の中華崇拝の姿勢が示されています。だからこそ、幽谷は「君臣の名、華夷の分を知らず」と徂徠を批判していたのです。幽谷門人の吉田活堂も、『鎖狂録』において「徂徠などが如く、たふとき神の御国に、生れながら、自ら東夷の人とかき、(太宰)春台か鎌倉紀行に天皇某所書などかけるともからに対して、大和魂をな失ひそとはいふになむ」と批判しています。

國體動揺の原因─「時勢の変」と「邪説の害」

正志斎は、「國體 上」において、わが國體が、君臣の大義と父子の至親とが確立され、忠孝一本、祭政教一致の國體だと説いています。もともと日本国家の建国の原理という意味で「國體」という言葉を使用したのは、正志斎が最初です。栗山潜鋒らも「國體」という言葉を用いていましたが、正志斎のように「祖宗の国を建て基を開き給ひし所以の大体」という意味では用いていませんでした。西村文則は、「会沢伯民は…幽谷のもつ、経学、幽谷のもつ國體学を代表して之に体系づけた人だ」と評しています。

ところで、『新論』とともに後期水戸学の代表的著作としてあげられるのが、幽谷の次男・東湖の『弘道館記述義』です。戦前の水戸学研究を主導した高須芳次郎は、「東湖が『弘道館記述義』において、國體を説いたところは、簡明で、頗る要を得てゐるが、正志斎は更にこれを敷衍し、その理論を組み立てて、前から、後から、右から、左から、日本の國體が如何なるものであるかといふことを論理的、実証的に明言した」と評価しています。

さて、正志斎は「國體 上」で、誇るべき國體が動揺する原因として、「時勢の変」と「邪説の害」を挙げました。「時勢の変」とは、時代が経過する中で、紀綱が緩み、肇国の理想から遠ざかっていくことです。こうした歴史の捉え方は栗山潜鋒や藤田幽谷を引き継いだものです。幽谷が寛政三(一七九一)年に書いた「正名論」には、「鎌倉氏の覇たるや、府を関東に開きて、天下の兵馬の権専らこれに帰す。室町の覇たるや、輦轂(天子の御車のことで、天子の都の地である京都を指す)の下に拠りて、驩虞(覇者)の政あり。以て海内に号令し、生殺賞罰の柄、咸その手に出づ。威稜(威力)の在る所、加ふるに爵命(官位)の隆きを以てし、傲然尊大、公卿を奴視し、摂政・関白、名有りて実無く、公方(将軍家)の貴き、敢へて其の右に出づる者なければ、すなはち『武人、大君となる』に幾し」と書かれていました。

正志斎も、紀綱が緩んでいった歴史を丁寧に辿り、厳しい批判を加えています。例えば、足利義満を「國體の念を欠くこと甚だしい」と批判しています。ただし、正志斎は徳川幕府を明確に否定することはできませんでした。彼は「徳川家康公は……専ら忠・孝の道を基本とし、遂に二百年におよぶ太平の業を達成した」と書いているのです。

正志斎の理論の斬新さは、國體動揺の原因として「邪説の害」を指摘したところにあります。これが、冒頭に書いた正志斎の危機感となって表明されるのです。

正志斎が異端・邪説として挙げるのは、巫覡の流れ(神に仕えて呪術を職業とする者)、浮屠の法(仏教)、陋儒俗学の輩(固陋な儒者や世俗に迎合する学者)、西荒耶蘇(西洋のキリスト教)です。

正志斎は、以下のように仏教とキリスト教に対して厳しい批判を展開しています。

「…本地垂迹の説がおこるに至っては、尊いわが国の神々を仏名をもって冒瀆し、天をだまし人を欺き、わが国民が仰ぎ尊ぶものをすべて異国の神の分支末属とし、神州日本をインドの隷属国とし、日本国民をば西方異国の徒属となさしめた。国の内部が自ら異国化してしまった以上、どうして國體を維持していくことなど出来ようか」

「西洋異国に至っては、いずれの国においてもキリスト教を信じ、このキリスト教によって近隣諸国を併呑し、至るところの神々を焼き払い、人民を欺き、そしてその国土を侵奪してしまうのである。彼等は、他国の君主を臣下とし、人民に苦役を課さないではいられないのだ」

 

対外的危機に目覚めた藤田幽谷と蒲生君平

西洋の進出に対する正志斎の警戒感は、当時の状況を直接反映したものであり、それは幽谷とその盟友蒲生君平の危機感を受け継ぐものでした。

寛政期以降、西洋の日本への圧力は一段と強まっていました。寛政四(一七九二)年冬には、ロシアのアダム・ラクスマンが来航し、幽谷は異国船防禦のため筆談役を命ぜられました。これが彼の対外的危機感を掻き立てることになったのです。幽谷は翌寛政五年には最初の封事を水戸藩六代藩主の徳川治保(文公)に呈出しようとしました。しかし、このときは侍読・長久保赤水に握りつぶされてしまいました。

しかし、幽谷は寛政九(一七九七)年十月に再び「丁巳封事」を文公に呈出、「ロシアは北方から神州日本の隙を窺い、着々と南下政策を進めつつあります。しかも、わが水戸藩は長い海岸線を持ち、外敵と隣接する位置にありますから、あらかじめ厳重に防備をしなければなりません」と述べて、発奮を促したのです。ところが、幽谷は不敬の罪によって解職され、謹慎を命じられることになったのでした。だが、こうした幽谷の危機感は正志斎に共有されていきます。すでに、享和元(一八〇一)年に正志斎は蝦夷地の歴史地理とロシアによる千島侵寇の由来を調査して『千島異聞』を著していました。やがて、外国勢力に対する危機感は『新論』において爆発することになるのです。

文化元(一八〇四)年、ロシア使節レザノフが長崎に来航し、国交と通商を求めてきました。文化三年には、ロシア兵が樺太、千島、北海道に侵入し略奪、放火などの乱暴を働きました。強い危機感を抱いた蒲生君平は水戸に急行し、幽谷と議論しています。幽谷は享和二(一八〇二)年に再び文公に登用されるようになり、文化二年の文公薨去に伴って藩主に就いた徳川治紀(武公)の信頼を得ていました。

幽谷との議論を経て、文化四年に君平が著したのが、『不恤緯』です。不恤緯とは『春秋左氏伝』にある、機を織る寡婦が、緯(横糸)の少ないことを恤えずに、祖国・周の世の隕れることを憂えたという故事にならったものです。注目すべきは『不恤緯』の序にある「邦の大事は祀と戎とにあり」という言葉です。「祀」は神事祭礼、「戎」は国防を指します。まさに、この発想が『新論』にも引き継がれているのです。大嘗祭重視の姿勢は、『新論』を貫く正志斎の一大テーマです。

〈歴代の天皇は、山陵を修め、祭典を尊び、いつも誠敬を尽くされたので、祭祀の礼典は充分備わるようになった。がこの中でも本に報い、祖先を尊ぶ気持が最もよく示されているのが、「大嘗会」だ〉(同)

正志斎は、祖先が天祖に仕えたことを各氏族の人々が踏襲して、天皇に対し孝敬を尽くすことに、大嘗祭の意義があり、それによって祖先や親に対する孝の心は忠の精神と一体となり、忠孝が日本の良風美俗として維持されると考えたのです。

正志斎の大嘗祭重視は義公の精神を継ぐものでした。後水尾天皇が残されたお言葉「興廃継絶」(廃れたるを興し、絶えたるを継ぐ)を生涯の指標と定めていた義公にとって、『礼儀類典』編纂の動機は、大嘗祭をはじめとする朝儀公事の復興にほかならなかったのです。

外来思想の蔓延を楽観視する人々

幽谷の危機感とそれが理解されない無念こそ、正志斎の『新論』執筆の原動力だったに違いありません。

幽谷は文化五年正月に七言律詩を詠んでいました。

春来一夜、斗杓(北斗七星)を廻らす

北を顧みて還ち憂う、胡虜(ロシア)の驕るを

筆を投じ自ら憐む、班定遠

家を忘れ誰か擬せむ、霍嫖姚

長蛇まさに畏るべし、神兵の利

粒食曽ち資す、瑞穂の饒

宇内の至尊、天日の嗣

須らく万国をして皇朝を仰がしむべし

班定遠(班超)は後漢の時代に西域征伐に功を挙げて国威宣揚に貢献した武将、霍嫖姚は前漢武帝の時代に六度にわたって匈奴に遠征して大勝した武将です。

名越時正は、この詩を「國體名分を重んずる尊王思想と、迫り来る外敵を打ち払って国威を宣揚しようとする攘夷の気概がここに一つに結合していることを見ることができよう」と評しましたが、まさに幽谷の心情は『新論』において体系化され、全面的に展開されるのです。

幽谷がこの詩を詠んだ直後の文化五年八月、さらに重大な事件が起こります。イギリス船フェートン号が長崎に侵入、長崎奉行松平康英が責任をとって自刃したのです。

文政五(一八二二)年には国籍不明の黒船が太平洋岸に姿を現し、次第に陸地に近接するようになります。この間、文化十三(一八一六)年に藩主に就いた徳川斉脩(哀公)に対しても、幽谷は封事を呈し続けていました。

そしてついに文政七(一八二四)年、捕鯨船でやってきたイギリス人十二名が水戸領大津浜に上陸します。このとき、正志斎は飛田逸民とともに筆談役として現地に急派され、イギリスの強大な勢力に強い危機感を抱きました。この筆談の模様をまとめたのが『諳夷問答』です。その末尾につけられていた「弁妄附」には「諳虜今度渡り来りし事、交易のために来るとも云、又漁業のために来るとも云、巷説紛々なれ共、皆信ずるに足らず。西洋の諸国犬羊の性とはいへども、古より通商を事とし万里の波濤を凌ぎ、殊方異域を経歴し聞見も広きに随ひ、自然に志気も広大になり、四海万国を併呑するを以て業とす」と書かれていました。

こうした外夷の侮りを受けることが國體を汚すことになると危機感を抱いた幽谷は、東湖にイギリス人斬殺を命じました。ところが哀公は、幽谷に対し、異国人はただ薪水を求めて上陸したものと判断し、楽観論を示しました。幽谷は必死に反論を試みたものの、哀公を説得することはできませんでした。

まさに、『新論』はこの事件を直接的契機として執筆されたのです。幕府が、「接近してくる外国船をただちに砲撃して打ち払え」という異国船無二念打払令を発布したのは、『新論』執筆中の文政八(一八二五)年二月のことでした。『新論』に記された西洋の進出に対する警戒感は、「弁妄附」で示された警戒感そのものです。

正志斎は、特に「虜情」において、西洋、キリスト教に対する警戒感を露わにしています。

「夫れ虜の妖教を仮りて、以て諸国を顛滅し、その宇内を呑みてこれを尽さんと欲する、日たるや久し。すなはちその喜怒、すでに数百年の前に定まれり」

「夫れ西夷の中国(日本)を窺ふものは、前後、武を接し、各国逓に至る。その国は殊なりといへども、その敬事し尊奉する所以のものは、すなはち同一の胡神なり。故に耶蘇の中原を闚ふこと、三百年にして変ぜず」

西洋は数百年来、勢力拡張を目指して日本にまで迫ってきていると述べているのです。その際、貿易(「通市」)もキリスト教もその手段であることが、強調されています。

正志斎が『新論』を書いてから百九十年を経て、欧米の植民地支配は過去のものとなりましたが、いま新自由主義、グローバリズムという形で、各国の国民経済が呑み込まれようとしています。ところが、國體を揺るがすものとして新自由主義を捉えないばかりか、その浸透を楽観視する人が少なくありません。正志斎の時代にも、邪説やキリスト教の浸透を楽観視する人が少なくありませんでした。それに対して、國體を自ら回復することを前提として、果敢に「攘夷」を唱えたのが正志斎だったのです。

いまこそ、國體護持という視点から外来思想の蔓延に警鐘を鳴らした正志斎の言葉に改めて耳を傾けるときだと思います。