生死落着─志士の死生観(『月刊日本』平成26年7月号)

服部中庸『三大考』に依った宇宙生成論

霊能真柱③ 『霊能真柱』は、駿河国府中の門人柴崎直古の寓居に籠もった篤胤が、文化八(一八一一)年十二月五日から三十日という極めて短期間のうちに、一気呵成に書き上げたものです。行き詰まったときには、筆をおいて神に祈り、悟りを得たと、篤胤自身が書き残しています。

このとき篤胤は、後に『古史成文』、『古史徴』として成る「古史」の策定作業を同時に進めていました。彼の言う「古史」とは本来の古史である『古事記』『日本書紀』に主として依拠しながら、その他の古史・古記録からも選択された、成文化されたテキストのことです。

子安宣邦氏は、それを「正しい古史」への、あるいは「正しい神代のストーリー」への発見的な、イマジナティヴな眼差しをもってする作業ととらえています。そして子安氏は、「古史」の策定と『霊能真柱』執筆が同時並行で進められたことは、「古史」策定を促し、また導いた篤胤のモティーフ、つまり宇宙生成論的な関心を窺わせると指摘し、〈「正しい古史」とは神の摂理を弁証する宇宙の生成過程を明示するテクストでなければならないのである〉と書いています。

『霊能真柱』における宇宙生成論は、本居宣長の生前からの弟子、服部中庸が寛政三(一七九一)年に著した『三大考』の成果を取り入れて展開されました。

篤胤は、未だ世界が成り立つ以前の虚空の中に、三柱の神(天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神)が存在したとします。高皇産霊神、神皇産霊神の二柱は、「産霊」という言葉が示すように、世界を生み出す元であると解釈します。次に篤胤は、二柱から世界の根本資糧が生み出されたことを明かします。

〈古ノ伝ニ曰ク、ココニ大虚空ノ中ニ一ツノ物生リテ、ソノ状貌言イガタク、浮雲ノ根係ル処ナキガゴトクシテ、海月ナス漂蕩エル時ニ、云々。/この生れる一つの物は、やがて天・地・泉の三つに分かれたものである……また次々の神々が生りましたのも、ことごとくかの二柱の産霊の大神の産霊によって生ったのである〉(相良亨現代語訳)

この「一つの物」から「宇麻志葦牙比古遅神」が生まれ、またその神から天の基底となる「天之底立神」が生まれます。さらに「一つの物」から「国之底立神」と「豊斟淳神」が生まれます。そして次々と神々が生み出されていき、最後に伊邪那岐神と伊邪那美神が生み出され、この最後の二神によって国生みが行われていくとしたのです。

『霊能真柱』は『三大考』と同様に、十点の図を示して、世界の成り立ちを説きましたが、伊邪那美命の黄泉行きについて、独自の解釈を示していました。

『古事記』では、伊邪那美命は、火神を産んだため陰部が焼けただれて死に、伊邪那岐命によって葬られ、黄泉国へ行ったとされていますが、篤胤は「鎮火祭の祝詞」を主たる典拠とする「古伝」に依り、そこに「伊邪那美命ハ火産霊神ヲ生ミマセルニ因リテ、遂ニ神避リマシキ」とあることに注目します。

篤胤は、これを受けて〈「遂ニ神避リマシキ」とは…下津国に神避りまそうとされたものの、途中から還られ、水の神・土の神を生みましたが、やはり恥じ思われる心がやまず、遂に夫の神のもとから下津国に神避りましたとの意味である。…下津国に行かれたのは、その現身のまま行かれたのであって、死なれてその御霊のみが行かれたのではない〉と書いています。

篤胤は、伊邪那美命が泉に行った時点では、地と泉とが分離していなかったのだから、伊邪那美命は死んではいないと考えたのです。

一方、大国主命の最終的な居場所(死後の場所)は、『三大考』においては泉とされていましたが、『霊能真柱』では地であると唱えられています。大国主命が地にいるのならば、大国主命の霊魂と肉体は未だ分離しておらず、未だ死んではいないということになるわけです。

篤胤は、大国主命をはじめとする神は、それぞれの宮に「御身ながら」鎮まっているとしたのです。吉田真樹氏は次のように書いています。

〈神は見えない所にいるが、その居場所は、祀られる限り、神を祀る宮に関連づけられる。私たちは身近な宮に親しむ限り、神と親しむことができる。幽冥界は、以上のような身近な神の居場所として、まずはイメージされるものであった。地(球)が踏破された結果、上でもなく下でもなく横でもなく、私たちの近くに、私たちと同じ地に、重なった形で超越界が見出されたのである。そして、その幽冥界こそが、人が死後に霊魂となって行く世界であるとされた。…篤胤は、私たちが生きている、その同じ地の範囲内に、生きている私たちの延長としての、いわば身近な超越性をもつ世界、近いけれども見えない世界として幽冥界を見出したのである〉

死後の世界への親しさこそが、篤胤独自の死後観を支えていたと考えられます。これが、古代からの日本人の死生観だったのかもしれません。それを示すのが、柳田国男の『先祖の話』にある次の言葉です。

「私がこの本の中で力を入れて説きたいと思ふ一つの点は、日本人の死後の観念、即ち霊は永久にこの国土のうちに留まつて、さう遠方へは行つてしまはないといふ信仰が、恐らくは世の始めから、少なくとも今日まで、可なり根強くまだ持ち続けられて居るといふことである」

さて、文政五(一八二二)年、篤胤は、神かくしに遭って行方不明になり、その間仙界で暮らしていたと称する寅吉という少年との面談を記録した『仙境異聞』を著します。やがて、霊魂ないし神と直接交流するための行法を探求する本田親徳らの神道霊学が展開されていきますが、それは伊勢神道、吉田神道、垂加神道など、中世以来の神道思想の発展の流れの中でとらえる必要があるように思います。実際、篤胤に学ぶとともに会沢正志斎に師事した本田親徳の思想には、吉田神道や垂加神道の影響があったと推測されるからです。

霊魂の落着する場所「日之少宮」

ところで、本居宣長が「幽事」を「カミゴト」と訓み、現世の事象の背後にあるとみなされる神々のなす事ととらえたのに対して、篤胤は「幽事」を「カクリゴト」と訓み、人間の死後の魂の鎮まりととらえました。一条兼良の『日本書紀纂疏』にある「顕露之事は人道也。幽冥之事は神道也。二道はなお昼夜陰陽のごとし。二にして一たり。人顕明之地に悪を為さば、即ち帝皇之れを誅し、悪を幽冥の中に為さば、即ち鬼神之れを罰す。善を為し福を獲るもまた之れと同じ。神事とは即ち冥府の事にして、祭祀牲幣之礼に非ず。祭祀牲幣はなお顕露事に属するがごとし」という一節を、篤胤は独自に解釈するのです。子安宣邦氏が指摘しているように、篤胤は、「幽冥之事」を「幽事」と解釈し、「(人の死後)其霊性は滅ること無れば、幽冥に帰きて、大国主ノ大神の御治に従ひ、其御令を承給はりて、子孫は更なり、其の縁ある人々をも、天翔り守る、是ぞ人の幽事にて、産霊ノ大神の定め賜ひ、大国主ノ大神の掌給ふ道なる故に、纂疏に、幽事ハ神道也と言へりと通ゆ」と説いたのです。

篤胤の死生観を考える上で重要な点は、『日本書紀』に基づいて独自の死生観を発展させてきた神道家たちの思想です。伊勢神道、吉田神道、垂加神道のいずれもが『日本書紀』にある「日之少宮」から、独自の死生観を展開していたのです。

「伊奘諾尊、神功既に畢へたまひて、霊運当遷れたまふ。是を以て、幽宮を淡路の洲に構りて、寂然に長く隠れましき。亦曰はく、伊奘諾尊、功既に至りぬ。徳亦大きなり。是に、天に登りまして報命したまふ。仍りて日之少宮に留り宅みましき」

現代語に訳すと、「伊奘諾尊は神としての勤めを終えて、あの世に逝こうとしていた。そこで、幽宮を淡路につくって、静かに長く御隠れになった。また他の伝承によると、天に登って報告し、日之少宮に留って住んだ」となります。兵庫県淡路市多賀にある伊弉諾神宮は、この神話に基づいて日之少宮とも呼ばれています。

伊勢神道の「神道五部書」において、日之少宮は神霊の鎮まりますところ、また神霊勧請の意義の拠所として重視されています。一方、吉田神道の奥義を伝授された吉川惟足は、「死」の問題に真正面から取り組んで体系的な答えを出した先駆者ですが、彼もまた日之少宮を重視していました。

そして、垂加神道を提唱した山崎闇斎は『中臣祓風水草』において、「日少宮は神道始終の本体なり。故に、神道の葬礼は、遷宮の儀の如くなり。此れ秘伝なり」と語っています。

谷省吾は、日之少宮の神話を、神道における霊魂のあり方を示し、ひいては人生の在り方を示すものと考えたのが垂加神道であったと指摘し、玉木葦斎の『玉籖集』など垂加派の伝に基づいて、次のように書いています。

「われわれの生は、めいめいの天命をうけ、不滅の神霊をわけ賜つて生れたもので、その賜物をきづつけぬやうに、純粋に守り通し、身の朽ちるまで精一杯にはたらき通すのが、人生の意義である。われわれの身はいわば神社の社である。社をホコラといふのは火の蔵の意であつて、神明の舎のこと、心といふものもそれに通じる。神道の葬礼は遷宮の義に同じ、ともいふが、日之少宮にも遷宮の理が含まれている。…われわれは、この日之少宮を目あてにして、神道的生死観を確立すべきであるといふのである」

一方、崎門派の若林強斎『生死決断』について、安蘇谷正彦氏は以下のように書いています。

「自然界においては、天地の魂が太陽でありそのエネルギーが迸る直前の状態が日之少宮である。同様に、人間界においては両親の真心によって、母の胎内に身龍り今まさに生れようとする胎児の形態が、日之少宮であると言う。しかも、それは未発の日之少宮で、そこには生涯を生きる力も生後何を為すべきかもすべて具わっている。…その胎児(未発の日之少宮)がオギャと生れて、一生涯が終ると再び未発の日之少宮になる。というのが強斎の日之少宮伝の解釈であり、それを合点すれば、死生の惑いは無くなる、と主張している」

谷省吾は、垂加派の先学たちは、永遠なるものを、平板な運行において見るのではなくて、この生滅相対の世界において、無窮の可能性を明らかにしようとしたと書いています。さらに、そこには、いわゆる終末観や神の国の思想はなく、死の中から新しい生命を生むというフェニックスの弁証法もなく、また仏教の再生輪廻とも異質のものだと指摘しています。

霊魂の不滅を強調した垂加派

『日本書紀』などに示された死生観に基づいて霊魂の不滅を強調してきたのも、吉田神道や垂加神道の先人たちでした。

吉川惟足は、先に挙げた『日本書紀』の一節「伊奘諾尊、神功既に畢へたまひて、霊運当遷れたまふ……」について、「霊は一心なり、運は運命なり、当遷るなり、壽の長短は皆天の運命による、霊は不生不滅なり、この身死して体腐朽るといえども、その一霊は帰天一篇の気になるなり」と書いています。惟足には『生死落着』という「生死の道理」を扱った著書もあります。ここで彼は、①人間の姿や形は、土に帰って消滅するが、心は不滅である。②心は天地の一気に永遠に隠れる。③心を祭れば、この世に来格して祭をうける──と主張しています。

山崎闇斎もまた、独自の死生観を固めていました。「死生利害を超えて皇統守護の任に当たる」(本誌平成二十五年二月号)で書いたように、闇斎は自らの心神(心の神)は天神から与えられたものであるとともに、天神に連なるものであることを確信しました。彼は大己貴命の進退に心神を見出していました。高慢な態度を反省し、あらゆる物をすべて天孫に献上し、退居して天孫と国土との守護に任ぜられた大己貴命にあったのは、利害の念や功名の心ではなく、ただ生死を越えて、所期の具現への祈願だけだったのです。

闇斎は、慶安三(一六五〇)年、三十三歳のとき、家の仏式の位牌を廃してそれを儒式の神主に改めましたが、晩年の延宝二、三年(一六七四、五)年頃、儒式の神主を廃し、新たに神式の霊璽を作り、それに自身の霊を封じ、あわせて父祖代々の神霊をも封じてこれを祀りました。

近藤啓吾先生が指摘されている通り、生前封霊は、吉田家はもちろん、賀茂・稲荷・藤森などの古社でも行ったことがない未曾有の試みでしたし、幕府からも疑いの眼で見られる可能性があり、まさに必死の覚悟でこれを行ったものと推測されます。

その霊璽の形は、四角の銅の箱を作り、その蓋と底に小さな方穴を穿ち、その上下を通る五分角の榊の柱を立て、その周囲に吉田神社大元宮後方の八神殿の背後の赤土をつめ、柱の上の木口に「心」の字を書いたものでした。

大己貴神の心神が、神人万物受け隔てなく与えられていると信じた闇斎は、大己貴神がその心神を三輪山に勧請されて、大和の地霊になることで天皇を護持されたのにならい、自らの心神を生前に勧請されたのです。近藤啓吾先生は、闇斎の境地について、次のように書いています。

「ここに自分の神霊は、天御中主尊以来伝へられて来たわが祖先代々の神霊と一体となり、我れもまたこの儘にして永遠のいのちの中に生きるものとなったのでありました。

わがいのちがかくして永遠となりました時、最早残存するわが肉体のごときは、意とするに足らなくなつたことでありませう」

こうした闇斎の死生観は、若林強斎によって発展していきます。それが明確に出ているのが、『神道大意』の次の一節です。

「あの天の神より下された面々のこの御霊は、死生存亡の隔てはないゆえ、この大事のものを、即今、忠義の身となして、君父に背き奉らぬ様に其なりにどこまでも八百万神の下座につらなり、君上を護り国土を鎮むる神霊となる様にと云より外、志はないぞ。じゃによって、死生の間に頓着はない。どこまでも此天神よりたまわる幸魂・奇魂を持ちくずさぬ様に、汚し傷つけぬ様にするよりない」(原文はカタカナ)

志士の死生観の核心=「生死を越えて皇統守護に任ず」

大国主神を仰ぐべき神として顕彰し、自らも生死を越えて皇統守護に任ずる志は、篤胤の『霊能真柱』にも窺うことができます。

〈…死んで幽冥に帰すると、その霊魂はすなわち神となり、その霊異なることは、そのほどほどにしたがって、あるいは尊く・賤しく、あるいは善く・悪く、あるいは剛く・よわくとちがいはあるが、中でもすぐれたものは神代の神の霊異さにもおとらぬはたらきをなし、また事がおこらない前から、その事を人にさとらせるなど神代の神と異なるところがないのである〔それは、菅原の神の御威勢などを見て知るべきである。…]それは、かの大国主神が隠れましつつもお側に侍りおる心でこの現世を守りたまうのと同じく、君や親や妻子をその幽冥から守るのである〉

安蘇谷はこの一節を引いて、篤胤の基本的主張を①死後の霊魂は、神となること、②死後の霊魂は君主や妻子を幸わう働きをする──と整理し、「強斎の、死後の霊魂は神霊となって八百万神の下座につらなり、君上を護り、国土を鎮める神霊となるという主張とほぼ一致する。もちろん死後の霊魂の場所については、幽冥と日之少宮という相違はある。が、神となって、死後もこの世に関わる働きをする点は、酷似していると言ってよかろう」と指摘し、強斎の主張が篤胤の基本的死後観の先駆になっていると推断してよかろうと書いています。

さらに、三木正太郎は、垂加派と篤胤の死生観について、「その到達し得た死生観に於いては、共に霊魂不滅の信仰に立ち、日之少宮又は幽冥界に永遠に鎮ります霊魂は、共に現世を離れず、君親妻子を守護し、国土を鎮め、外敵を討滅しようとするものである。…表面の論理体系を越えてその本質を洞察するとき、ここに一つの精神が脈々として伝承されてゐるのを、明らかに看得することができる」と書いています。

ところで、闇斎の高弟浅見絅斎の喪祭に関する講話を筆記した『喪祭略記』は、若林強斎─梅津共軒と伝えられました。近藤啓吾先生は、秋田藩の闇斎派学者の家にあった『喪祭略記』写本の末に、「平田篤胤(花押) 文化三年二月十五日」という識語があることに注目し、「闇斎の神霊説が篤胤のそれに深く影を投じてゐると、私は信ずるものであります」と指摘しています。

生死を越えて皇統守護に任ずるという垂加派と篤胤に通ずる志こそ、幕末の志士をはじめ、わが国のいのちを継いできた志士の死生観の核心です。鶴見神社宮司の花谷幸比古氏は、『幕末入門書─志士たちの生涯と死生観』(展転社)において、幕末の志士の死生観を具体的に紹介しています。それらは、ことごとく霊魂の不滅と死後の皇統守護の一念で貫かれています。

吉田松陰は、自らの処刑が近いことを知り、遺著『留魂録』を書き、その巻頭に「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも 留めおかまし大和魂」と詠みました。花谷氏は、浅見絅斎の『靖献遺言』によって死生観を培った橋本景岳(左内)について、〈殺されても道義を守り、死しては霊魂となって日本を守護するという崎門学の「日守木」の「死生観」を持っていたのである〉と書いています。さらに、割腹前に「大山の峰の岩根に埋めにけりわが年月の大和魂」と詠んだ真木和泉については、「和泉守は天王山の一片の岩に、死んだ後も皇統守護の魂を盤石のように鎮め、国家一大事のときに出かけて敵を討つ、という一念を込めたのである」と述べています。

筆者は、本誌五月号で崎門派と篤胤に通ずる「雄々しく潔き大和魂」について述べましたが、篤胤は『霊能真柱』において、死んだ後の自らの魂は、師宣長の御前に侍ると述べ、次のような志を語っていました。

「大御国に敵対する外国があって師の御心を痛ましめることがあれば、この篤胤がまかり向かい、見て参りはべらんと、しばしの暇を申し請い、山室山のかつらを襷にかけ、矛を右手にもち、弓を左手にとって、大きな靱を背に負い、大きな大刀をはいて、大空をかけ、神軍につどい入ろう」

この「雄々しく潔き大和魂」の手本こそ、楠公精神でした。若林強斎は、生死を越えて皇統守護に任じ、八百万神の下座に連なろうとの決意から、書斎を「望楠」と命名しました。これについて、安蘇谷氏は「生きても死んでも主上を守護するという望楠の精神に感激した強斎が、死後の霊魂の働きを積極的に説く死後観を形成したと推測しても、不自然ではあるまい」と指摘しています。

そして、強斎の生死落着を支えていたのは、「繾綣惻怛」、つまり天皇に対する止むに止まれぬ至情としての忠を体認することだったに違いありません。皇統守護を任ずる志士たるためには、楠公や強斎の生きざま自体から学ぶべきだということを、改めて痛感します。  (完)

次回から会沢正志斎『新論』に移ります。