実践の学に高められた国学(『月刊日本』平成26年6月号)

平田派による足利三代木像梟首事件

霊能真柱②尊皇攘夷運動が昂揚していた文久三(一八六三)年二月二十一日、平田派の長沢真古登が同門高松信行(趙之助)のもとを訪れると、高松は筆をとって何かを認めていました。長沢が「何を認めているのか」と問うと、高松は声を潜めて、

「君臣の大義を正し、天下の名分を明らかにすることは、我ら同志の最も強く主張する所ではないか。我らは、その一手段として足利三代の首を梟しようと思い立った。そもそも尊氏、義詮の非義は言うまでもない。義満にいたっては、朝廷の謚号を受け、あるいは太上天皇と僭称し、その不臣は極まった。衣笠村の等持院が義詮によって創立され、足利氏十三代の木像を安置していることは、君も知っているだろう。俺は、尊氏以下三代の首を抜いて、梟木にかけ、平素の論旨を表白して、大いに大義名分を正そうと思い、いま漸く草案を認め終えたところだ」

前年の文久二年七月、井伊直弼の謀臣長野主膳と協力して尊攘派の志士捕縛を指揮した島田左近が京都市中京区の善導寺あたりで殺害され、四条上る鴨川河原で青竹に括りつけられた首が晒されて以降、尊攘派による天誅が活発になっていました。島田左近の手先の猿の文吉、主膳の志士弾圧に協力した京都町奉行所与力の渡辺金三郎・大河原十蔵・森孫六、主膳の妾・村山たかとその息子多田帯刀、千種家雑掌の賀川肇など、数多くの天誅が繰り返されました。賀川の首は上京中の将軍後見職徳川慶喜の宿所の東本願寺前に、そして右腕は千種邸、左腕は岩倉邸に投げ込まれるという陰惨な事件でした。

高松の草案を読んだ長沢は「愉快、愉快、真に天下の大快事だ。我輩は奮って賛成だ」と語り、早速同志を集めに走りました。そして、師岡節斎(正胤)、角田忠行、三輪田元綱、青柳健之助、仙石佐多雄、宮和田胤影(勇太郎)、野呂直貞(久左衛門)、長尾郁三郎、西川吉輔(善六郎)ら平田派の志士たちが計画に加わることになりました。

二月二十二日夜、高松、長沢、師岡、角田、青柳、長尾の六人に建部建一郎、小室理喜蔵、大庭恭平を加えた九人が等持院に忍び入りました。総門を越え、中門も首尾よく抜け、影堂へ侵入しました。抵抗する持僧を縛りあげ、陳列されていた十三人の足利将軍の木像のうち、足利尊氏、義詮、義満の木像の首を抜き取り、目をくり抜いた上で風呂敷に包んで持ち去り、野呂直貞家に向かいました。野呂の家には中島錫胤、岡元太郎、西川吉輔、野城廣助がおり、みんなで祝杯を挙げた後、三条大橋(鴨川河原)に三箇の木像の首を晒したのです。それぞれの首の下に、「等持院足利尊氏」「義竹院足利義詮」「鹿苑院足利義満」と書いた木札を下げました。さらに、三条大橋の西の、制札を懸ける札之辻に斬奸状を掲げたのです。

「此の者(尊氏・義詮・義満)どもの悪逆は、已に先哲の弁駁する所、万人の能く知る所にして、今更申すに及ばずと雖も、今度、此の影像どもを斬戮せしむるに付いては、贅言ながら、聊かその罪状を示すべし。抑も此の大皇国の大道たるや、只だただ忠義の二字をもって其の大本とする、神代以来の御風習なるを、賊魁鎌倉頼朝、世に出て朝廷を悩まし奉り、不臣の手始めを致し、ついで北条・足利に至りては、其の罪悪の実に容すべからざる、天地神人ともに誄する所なり」

ここまでであれば、悪質な悪戯扱いで済んだかもしれません。しかし、斬奸状にはこれに続けて「今の世に至り、此の奸賊に猶ほ超過し候者有り。其の党許多にして、其の罪悪、足利等の右に出づ」と書かれていたのです。

京都守護職を務めた会津藩主松平容保の側近、山川浩が『京都守護職始末』で、「是れ即ち公然と幕府を指称し、尊氏の首級をもって、(徳川)将軍に擬せしなり」と書いた通り、婉曲に徳川幕府討幕の意志を語ったものと理解されたのです。家茂が将軍としては二百三十年ぶりに上洛し、攘夷の期限を上奏する事になっていたので、この事件は、将軍を畏怖させ圧力をかける事によって、攘夷期限の上奏の早急な実現を迫るものだとも取られました。

木像梟首の計画は高松信行の発案とされていますが、発案者は角田だったとの説もあります。事件後、角田は次のように詠んでいます。

しこ首を ぬきてさらして み吉野の

君と臣とに 今日はたむけつ

角田秀男蔵『木像事件』によると、角田が二月十九日に等持院を訪れ、住職に木像の拝観を申し出たところ、住職は拝観料として銭二百銅を要求しました。角田は「醜像をみるに何ぞ賽するを用ひむ」と述べ、憤慨して帰った後、長尾郁三郎と相談して同志を集め、木像を梟首することにしたといいます。

天保五年、岩村田藩に生まれた角田は、安政二年に脱藩して江戸へ出ました。そして藤田東湖に入門するとともに、『山陵志』に込められた蒲生君平の志に思いを寄せた大橋訥庵(本連載、四月号)にも師事しました。そして、安政六年に平田篤胤歿後の門人となっています。

角田は師岡、三輪田と深い交友関係がありました。また、角田は事件に参加した長沢真古登、青柳健之助、野城廣助の師権田直助とも深い交友がありました。

事件前年の文久二年末、角田は平田鐵胤、野城廣助らとともに京都に上っていました。その頃、京都には平田派国学者が続々と集結しており、勤皇の女流国学者・松尾多勢子をはじめ、三輪田、師岡、宮和田らが二条衣棚の夷川下る町の寓居を本拠として志士的活動を展開していたのです。

武家政治批判の姿勢を鮮明にした篤胤

さて、松平容保は断乎たる処置を執ろうとし、二十五日に町奉行の吏員を集め、速やかに事件の犯人を逮捕するよう命じました。二十六日には、諸隊が派遣され、そのうちの一隊は、祇園新地にある妓楼奈良屋に行き、三輪田元綱、宮和田勇太郎、長沢真古登、建部建一郎、大庭恭平を逮捕しました。もう一隊は、三輪田元綱の寓居になっていた、二条衣棚東側の平田作次郎の店に向いました。激しい乱闘の末、師岡節斎と青柳健之助が逮捕され、仙石佐多男が切腹、高松信行が重傷を負い、会津藩邸へ連行される途中で亡くなりました。三条通西洞院に向った一隊は長尾郁三郎を逮捕し、野呂直貞と西川吉輔は近江で逮捕されました。角田忠行、小室利喜蔵、岡元太郎らは捕縛を逃れました。犯人の特定が早かったのは、事件に参加した大庭恭平が密告したからです。

このとき、土佐勤王党の吉村寅太郎は、吉田松陰門下の入江九一、山縣小輔(有朋)とともに学習院に犯人の赦免嘆願書を提出しています。

「……この度の浪士のものも、足利氏の大逆を悪み、名分を正そうという考えから仕出かしたものであって、そこに一点の私心もない。桜田の浪士が、掃部頭(井伊直弼)を打取ったのと同様である。どうか、高官のものと雖も、罪悪あるものはこれを罰し、無官のものと雖も、忠勤を尽したものはこれを賞して、名分を明らかにしていただきたい。そうでないと、高官のものは悪事をしがちになり、無官のものは忠勤を尽くしても高官の罪悪者に劣るという成り行きになると考える」

学習院の参政寄人などは、この嘆願に賛成でしたが、幕府側はあくまで、犯行は朝廷を蔑視したものであり、その罪は軽くないと主張して動きませんでした。

尊氏を逆賊とし、南朝を正統とする歴史観は『神皇正統記』以来、君臣の大義を重視する國體派に脈々と受け継がれてきました。高山彦九郎や蒲生君平が尊氏の墓を鞭打ったことは、すでに本連載でも取り上げてきましたが、篤胤自身、武家政治に対する明確な批判を展開していました。天保三(一八三二)年に板行した『玉襷』において、篤胤は尊氏を厳しく批判し、さらに義満について「西戎国の酋に媚て、彼が云ふに任せ、自ら日本国王と称し、重き逆罪を犯して、皇国に万世の臭名をしも胎されたり。……然れば義満将軍の悪逆は、高氏にも過て、憎むにも余りある事なり」と批判していました。

名越時正は「これまでの国学者にあき足らない感じを懐かせたわが国の歴史観、とくに中世の武家政治批判は、ここに至って水戸学・崎門学と全く相通ずるものとなったことを感じさせる」と書いています。

宣長と篤胤を分かつもの─道の規範化

これまでの連載で、崎門学や水戸学が維新の原動力となったことを強調してきましたが、国学を学んだ志士の中にも、果敢な行動に出る者がいたのです。例えば、最晩年の篤胤に入門した佐久良東雄は、桜田門外の変で井伊直弼を襲撃した高橋多一郎をかくまったとして囚われ、万延元(一八六〇)年六月に、「徳川の粟を食わず」と獄中で絶食死しました。佐久良の壮絶な生きざまは、食を断って餓死した伯夷・叔齊や、元に仕えることを拒否し、絶食して死んだ謝枋得(本連載、平成二十五年三月号)を想起させます。

佐久良が息子の石雄に与えた遺書には、「御大事と申す時は一命をすてて報い奉るべし、然らざれば吾が子孫にあらず、我れ父然る忠心只々幽冥より助け大功を成さしむべし、若し然らずして逆臣に与みせば我たちまちに取り殺さん、此の処をよくよく子々孫々に申し伝えよ」と書かれています。

尊攘派の志士たちは、非常時にあってその学派を越えて協力し、大きな力を発揮したのです。

前出の名越時正は『日本学入門』の中で「近世日本学の帰結」と題して、次のように書いています。

「かつて江戸時代のはじめから先哲が深刻な思索の中に切り開いた水戸学・崎門学・国学その他の正学はこれまでも互いに協力し、採長補短、あるいは論争鍛錬しながら、学統を維持して来たが、この非常の時に際しては、一つの日本学として純粋に究明され、その帰結を見出さなければならない。学派学統はもちろん解消したわけではないが、傑出した人物によって、たとえば水戸学は藩を超えて崎門学・国学の特色を併わせ取って洗練され、排儒論によって対立した国学と水戸学、あるいは国学と崎門学は、より大きな視野でしかもより純粋に鍛えられた。こうしてついには学派を超えた日本学として実践せられるのである。それがもはや書斎の学でも、文字文章の学でもなく、実践のための日本学であることはいうまでもない。故にこれを近世日本学の帰結の時期とするのである」

ただし、国学派すべてが、足利木像梟首に決起した志士や佐久良東雄のように討幕の実践運動に立ち上がったわけではありません。まず私たちは、紀州徳川家に召抱えられた宣長の生き方と闇斎以来の崎門派の身の処し方の決定的違いを確認しておかねばなりません。

足利木像梟首事件で捕えられた三輪田元綱は、事件前年の文久二年十一月、兄に宛てた書簡の中で、篤胤の門人大国隆正を「似て非なる人」と呼び、暗殺されても仕方ない人物とまで酷評していました。

皇學館大学教授の松浦光修氏は、隆正が元治元(一八六四)年七月、禁門の変に際して、長州藩の軍事行動を粗暴とみなし、以後「討幕」を「暴論」、「護幕」を「正義」であると主張するようになったと指摘し、隆正が文久二年の閏八月から元治元年三月までの一年半ほど石見国に滞在していたのは、尊攘激派からの襲撃を避けるという目的もあってのことと思われると書いています。

隆正は、元治元年九月十一日の日記に、「……いまは、わが門人だに、わが説にしたがはず。平田を信じて暴論におちいりたり。三輪田綱丸(元綱)、西川吉介(善六郎)、師岡正胤、福羽美静、長尾(郁三郎)のたぐひ、これなり。中にも美静は、御親兵、御親征などのことにかかり、綱丸、正胤等は、足利三代の首をとりたり。吉介は、彦根侯の密謀を、世にもらしたり」と書いていたのです。

一方、文久三年八月には、平田派の鈴木重胤が江戸小梅の自宅で刺客の凶刃に倒れました。実は、重胤は「尊氏以下の人形の首きり候ものは平田党のよし。これはイタイともカイイとも云はぬもの故つまらぬ事にて、今少しいたし方もこれあるべく候。古学者の疵に相成り候」と語り、「なるほど人間の生首を取るのと違って、木像は刃向かってこない。斬り合いをしなくてもよいものな、アハハハハ」と嘲笑していたのです。

重胤暗殺の犯人は確定されていませんが、平田派だろうと噂されてきました。だとするなら、実践運動に対する評価をめぐり、平田派が深刻な対立を抱え込んでいたと見ることもできます。

ここで想起されるのが、「学者はただ道を尋ねて明らめしるをこそ、つとめとすべけれ、私に道を行ふべきものにはあらず」(うひ山ぶみ)という宣長の言葉です。これに対して、篤胤は『霊能真柱』において「古学とは、熟く古への真を尋ね明らめ、そを規則として、後を糺すをこそいふべけれ」と述べています。

君臣の大義、内外の別という國體の神髄を極めるだけではなく、時の権力に阿ることなく、自ら生きる時代を厳しく問うことによってこそ、志士としての実践は生まれるのだと思います。

同時に、「現在も続く直毘霊論争」(同、一月号)で書いたように、宣長の現状容認の態度は「神意に対する絶対恭順」と不可分に結びついていました。宣長は、悪しき凶事はすべて禍津日神のなせる業だと考えたのです。

これに対して、篤胤は禍津日神もまた本質において善神だとし、悪事の原因を人間に期したのです。このような立場に立って、篤胤は我々人間には、君と親を敬い、妻子を恵むなど、儒者の言う五倫五常の道が生まれながらにして備わっているのだから、それなりにそれを曲げず、ゆがめず従い行くべきだと説いたのでした。

これを、篤胤批判者たちは、漢意による道の規範化だととらえるのですが、松本三之介が指摘した通り、宣長と篤胤の人間のとらえ方の違い自体に目を向ける必要があります。

宣長は「そもそも道は、もと学門をして知ることにあらず、生れながらの真心なるぞ、道には有ける、真心とは、よくもあしくも、うまれつきたるままの心をいふ」(玉かつま)ととらえたのに対して、篤胤は「その生れついたる真の心と云うものは、どんな物じゃと云うに、親を敬い、妻子をめぐみ、富貴をねがい、悪きをいやがり、善きを好むのが即ち性で、人の真の心、これに反してをるならば、そりゃ変と云うもの……」(『出定笑語』、仮名遣い等を改めた)ととらえていたのです。松本が言うように、篤胤の道の規範化はこのような人間観から発しているのです。

宣長の門人であり、備中吉備津神社神官であった藤井高尚もまた、宣長とは異なり、道の規範化を推進しました。藤井は『道のしるべ』において「神代よりいひつぎ来ぬる教をのみ、ひたぶるにまもりし上つ代の人は、今の世に儒教の書をよむ人よりは、なかなかに身のおこなひ、仁義礼譲孝悌忠信などいふすぢにもよくかなひたりしぞおほかる」と書いていました。

岡山大学教授の山中芳和氏が指摘している通り、藤井がこのように規範化に進んだのは、宣長の死後観の枠組みを離れることによって初めて可能になったのです。

「人は死候へば、善人も悪人もおしなべて皆よみの国へ行く事に候」という宣長の死後観を篤胤は否定しました。前回書いたように、篤胤は『霊能真柱』において楠公の最期を称え、「……人間は、世俗にも万物の長とさえいわれるほどのものであるから、なんとしても心を猛く潔くもって、死んで後もなお功あることこそ、物のまことの道にかなうといえよう」と書いた後、次のように述べているのです。

〈このように霊魂の行方はさまざまであり、ことごとくが夜見に往くとは定めがたいものであるのに[しかし、ここに畏れはばかるべきことがある。それは神の教えを信ぜず神の道をないがしろに思いたてまつる者は、神々がおいはらうというかの神やらいの理のごとく、黄泉の国においやられると思われるふしがある…]〉

こうした死後観によって、道の規範化は固められていたと考えられます。

明治四年に排除された平田派、崎門派、水戸学派

維新後、角田忠行は明治二年に京都へ戻り、矢野玄道、玉松操らとともに皇学所の維持・運営に従事しました。角田らはあくまでも政治・文教の中心は京都にあるとし、維新政府の東京寞都に激しく反対し、天皇の京都還幸、大嘗祭の京都執行を執拗に政府要路に迫りました。その結果、岩倉具視ら政府首脳からも疎んじられ、やがては危険分子扱いされるようになりました。

そして明治四年三月二十二日、角田忠行、矢野玄道、丸山作楽、権田直助、宮和田胤影らが「御不審ノ筋有之」として拘禁され、政府から追放されてしまったのです。このうち、角田、権田、宮和田が木像梟首事件に直接間接に関与した人物だったことに政府の意図が示されているようにも見えます。

明治四年に崎門派の中沼了三(葵園)や水戸学者の栗田寛が新政府から退けられたように、平田派だけではなく、垂加崎門派や水戸学派も新政府中枢から締め出されています。維新の理想を追求しようとした者は、すでに権力にとって邪魔になっていたのです。

近藤啓吾先生は「明治三、四年を境として新政府は祭政一致、古儀の復興を掲げた当初の理想を降して、文明開化主義に変更したのである」と書いています。

従来、平田派の勢力は明治維新直後に絶頂期を迎えたものの、その後急速に後退して明治四年には完全に没落するという図式が通念とされてきましたが、松浦光修氏は、角田、矢野らの平田派国学者は没落していったのに反して、亀井茲監、福羽美静など、大国隆正の思想を継承する一派は新政府内にあり続けたと指摘しています。

松浦氏は、隆正が明治三年から四年までの間に書いた『建言』において、「上に立つ人」が「西洋の智巧になづみたまふ」ことがあっても、「憂とするにたらず」と断言している事実から、開明派への協調姿勢が明白だと指摘するとともに、「をしへおもむけたまふままに、さからはず、もとらずしたがひゆくを、神のみこころとしるべきなり」、「やまと人は、ただ何事も上のしたまふままに、そむかず、もとらず」との表現に体制に従順な政治思想を見出し、次のように述べています。

〈……宣長の政治思想が、今日一般に「絶対恭順主義」、「現実容認主義」などと言われていることは、周知の通りである。とすれば、隆正の政治思想の無原則とさえ言える側面も、そもそも、宣長以来の国学の政治思想をそのまま継承したものにすぎない、とも考えられる〉

尊攘の志士たちの悲願だった明治維新は、早くもその初年において、「現実容認主義」を拒絶する勢力を排除することによって歪められたのです。今日に至る政治もまたその延長線上にあり、我々はなお維新の貫徹を必要としているのです。