生田萬の乱─「雄々しき大和魂」の爆発(『月刊日本』平成26年5月号)

 窮民を救った生田萬の乱

霊能真柱①「大飢饉」の名で知られる通り、天保年間には飢饉が慢性化しました。特に天保七(一八三六)年には、全国各地で天候不順による不作が続き、多くの地域で収穫が例年の半分以下に落ち込みました。このため全国的な米不足を招き、厳しい飢饉にみまわれたのです。翌天保八年には一揆や打ち壊しが続発するようになり、二月には大塩平八郎の乱が起こりました。その三カ月後に越後国柏崎で起こったのが、ここで取り上げる生田萬の乱です。

萬は、天保七年五月に柏崎の諏訪神社の神職を務めていた同志樋口英哲の懇望によって柏崎を訪れました。樋口は萬に対して、柏崎に長くとどまって国学の指導をしてほしいと頼みました。そこで萬は、当時住んでいた太田に戻り、同地での支援者と相談した上で柏崎への移住を決意します。同年十月、萬は妻縞と四歳と二歳の娘とともに柏崎に移ったのです。縞は、憂国の志が深く、詩歌に秀でた貞淑な女性でした。

天保八年に入ると、萬のもとに悲惨な情報が次々と入ってくるようになります。「昨夜はどこで放火があった」、「今朝はどこで倒死者が出た」──。

そんなとき、ある噂が飛び込んできます。「江戸高輪の豪商千波太郎兵衛という者が、手代五人に十万両という莫大な黄金を持たせて越後に派遣し、賄賂を使って役人と結託し、越後に残っている米を片っぱしから買い占めている」。その噂通りだったのか、天保八年四月下旬、米価は金十両で六俵八分に高騰します。役人、豪農、商人の中には、米価高騰を利用して、暴利を貪ろうとする者がいたようです。一説によると、代官伊東丈右エ門は自分の私服を肥やすために、奸商の賄賂を受け取り、米を他国に輸出していたといいます。

この頃、萬は知人の中村鷲之助に宛てて「四、五里離れた山方では、葛の根などを食い、子供を川へ流すようなこともしている」と嘆いています。五月に入ると、さらに米価は暴騰します。百姓たちはしきりに代官伊東に嘆願しましたが、伊東は取り合わず米の輸出を続けました。萬は百姓たちが無謀な行動に出るのを抑えつつ、自ら百姓たちを代表して伊東との交渉を重ねましたが、事態は全く改善しませんでした。萬は、郷民の苦しみを見るに忍びず、蹶起することを決意したのです。

五月三十日、ついに萬は同志とともに、西蒲原郡間瀬から船に乗り、刈羽郡荒浜に上陸します。神道無念流の武芸者・鷲尾甚助、鈴木誠之助、門人の小野澤佐右衛門、古田亀一郎、山岸嘉藤太の五人が萬に随いました。

まず、荒浜村の割元(村役人)を務めていた新平という者の住居に乱入し、「大塩平八郎の門弟で、隠し目付としてこの地に遣わされ、窮民を救う目的で米穀金銭の詮議をする」と称し、家探しの案内を強要しました。家人は恐れをなして逃亡しました。続いて萬らは同村組頭の荘三郎方を襲って十両余りを取り上げ、これを道路に投げ出して、窮民に配りました。

そして、翌六月一日夜も明けきらぬ頃、柏崎へと乗り込みます。萬ら六人に、荒浜村民八名と船頭が加わりました。彼らは「奉天命誄国賊」「集忠義討暴虐」と大書した白旗をひるがえして、大久保陣屋を襲撃したのです。

不意を衝かれた陣屋の者たちは大いに狼狽しましたが、やがて加勢の士がかけつけて形勢は逆転、鈴木がまず斃れました。続いて萬も重傷を負い、山崎の助けを借りて海岸まで逃げました。しかし、追撃されて、萬は「もはやこれまで」と悟り、その場で自決したのです。鷲尾は萬の首を三島郡与板の勝願寺に葬った上で自首しました。

柏崎の街は大混乱になりました。このとき、萬の妻縞は夫が蹶起したとは思いもよらず、村長のところに来て炊き出しの手伝いをしていました。

下田歌子の『日本の女性』によると、そこに突然、一隊の捕り手が来て「生田萬の妻がここにいるであろう。いるならば早く出よ。召捕に来たのだ」と言いました。ここでようやく、蹶起したのが夫だったことを知り、彼女は覚悟を決めたのでした。彼女は二人の幼い娘とともに連行されました。三人は獄中に呻吟し続けましたが、死を覚悟します。縞は二人の娘に向かって、「父上のところに行きたいなら、食事はするな」と命じました。それから、三人は一切の食事を絶ちました。三日目の夜、彼女は自ら指を食い切って、滴る血潮で二首の歌を書き遺してから、二人の娘を手ぬぐいで締殺し、自らは細紐で膝を固く縛り、端座したまま舌を噛み切って自決、萬に殉じました。

萬の蹶起は失敗に終わり、妻と娘も犠牲になりましたが、事件の翌日から米価は暴落し、豪商は争って倉廩を開き、窮民たちは蘇生の喜びを得たのです。

崎門正統派と平田篤胤の思想

萬は享和元(一八〇一)年、上州館林藩士生田信勝の長男として生まれました。八、九歳のころ、藩校道学館に入り、山崎闇斎門下の佐藤直方系統の朱子学を学びました。直方の高弟として知られるのが稲葉迂斎です。彼は六代将軍家宣の庶弟である館林藩の始祖松平清武の侍講を務めました。それ以来、藩学は直方学に定まったわけです。

萬が学んだころの藩校は、迂斎の次男黙斎の直弟子や孫弟子たちが中心になっていました。萬は「闇斎門派」に対する物足りなさを語っていたとされますが、萬は「読書を喜んで黙斎某氏に学ぶ。自ら経世の才を負い、闇斎山崎先生の人となりを慕う」とも伝えられています。

ここで、闇斎から浅見絅斎、若林強斎と続く崎門正統派と直方系の学門の違いに注目する必要があります。直方系は、当時の朱子学者に一般的に見られた中華崇拝と湯武放伐論肯定に陥る傾向がありました。これに対して、中華崇拝を克服し、湯武放伐論を否定したのが、崎門正統派です。つまり、萬は直方系の思想を退け、崎門正統派の思想を受容しようとしていたと考えられます。それを示すのが次の萬の言葉です。

「安正(浅見絅斎)は……君臣の義を重みし中国の説を争ひ、また靖献遺言の書を著したるなどは潔し……其徒若林某(若林強斎)などは天皇の御稜威衰へ給ひて聊の国郡を知坐りて、万に大御心をも任せ給はぬを諸侯と申す中には姓も骨も正しからぬも在るに、広き大き国々を領きて時めき坐せるを見るに得堪ず、其藩邸の白土以て塗りたる忿り詈らま欲ければ、昼は然る辺へは得行難しと或人に云ひける。甚しき言なれども最も最も潔くなも」(『大学階梯外篇二之巻』、適宜句読点等を補った)

しかし、萬は崎門正統派の学門に加えて、国学を学ぶようになるのです。文政四(一八二一)年、館林の豪商荒井静野の手引きによって、賀茂真淵や本居宣長の国学に目を聞かされたからです。そして、文政七(一八二四)年四月、二十四歳の時に萬は静野の紹介で、平田篤胤の気吹舎塾に入門し、翌年には篤胤と面会して親しく教えを受けるようになりました。

愛知教育大学教授の前田勉氏が指摘しているように、国学に傾倒する以前に萬が作った詩には、自分の才能を見い出しえない藩主、閣老に対する不満が満ち溢れていました。強い志を抱きながら、それが報いられない憤懣という矛盾を抱えていたのです。

国学と出会って國體観をさらに固め、忠誠対象を「御家」から「大御朝廷」に移すことによって、萬はこの矛盾を突破していくのです。

ただ、篤胤に師事してからも、萬は崎門正統派の学門を維持していたと見ることができます。新潟出身の日本近世史研究者、伊東多三郎は、「萬がこれまでに受けた儒学の教養は、必ずしも彼の国学と対立するものではなかつた、と思はれる。何故なら靖献遺言流の大義名分論と篤胤の思想に於ける國體観念とは、実質的には極めて類似のものであり得たからである」と書き、國學院大学学長を務めた神道学者の上田賢治も、朱子学の大義名分論によって尊皇思想に目覚めていた萬が、国学の皇朝古道論、神国思想に傾斜するのはさして困難なことではなかったと評しています。

そもそも、篤胤は師の宣長と同様に儒学を排し、闇斎の垂加神道を批判しつつも、崎門正統派の影響を受けていたのです。篤胤の生家大和田氏の祖先の一人大和田玄胤は、上京して浅見絅斎に従学し、帰国後は代々その学を家学として伝えた人物です。それに加え、近藤啓吾先生が指摘される通り、家老梅津氏の一族梅津共軒は若林強斎に従学し、秋田における同学の後援者となり、篤胤の頃にも、闇斎の学問は深く同藩の人々の間に浸透していたことから考えて、篤胤が早くから闇斎の神道説に触れていたと考えることができます。つまり、篤胤も萬も、崎門正統派の学問を受容した上で、国学へと傾斜していったということです。

さて、萬は篤胤の壮大な志が「皇国」「天皇」と一体化することによって生まれたことを見ぬいていました。「吾師大人の勃興せられて、畏くも、今上天皇の叡慮によりて、官軍義戦を起されたる」と書いたように、萬は篤胤が文政元(一八一八)年に『古史成文』を刊行し、同六年に天皇に献上したことを重く見ていました。そして、萬は次のように、皇国の道を奉ずることによって自分も一挙に「官軍」になると信じたのでした。

〈我身は魂幸ふ神の御霊に依りて、此皇大御国に生れ出て、天皇命の御民なれば、此身はたとひ賤しくともまことはいとも尊き所以のあるを、理なく我を穢浼さむとする奴等は、即神と皇と国とを穢浼し奉れるに当れゝば、いかでか其まゝに捨置くべき。是をしも忍ぶべくは、何をか忍ぶべからざらむ。此は支那風の真情を包み隠せる人どもは、知らざる事にて、大和魂あらむ人は此心用をも、常に忘るべからずなむ〉

萬の志操を固めた「魂の行方の安定」

皇国の道を奉ずると定めた萬が館林藩に遠慮することは、もはやありませんでした。文政十一(一八二八)年四月、『岩にむす苔』と題して藩政改革意見を起草します。当時、館林藩では出費がかさんで財政が窮乏していました。そこで、藩士たちに対応策を出すことが指示されていたのです。

ここで萬は、藩士も農業に従事すること、諸役を整理して簡素化すること、目安箱を設置することなどを提案しました。さらに、萬は直方の学風を念頭に置いて、「学風はもとより唐土の学風故、我が皇朝の御制度に相背き候事は勿論にて、甚迂遠なる事共御座候」と藩学を公然と批判したのです。そればかりか、館林藩の家格を上げようとする藩主を批判したのです。

こうした意見書が受け入れられるはずもありません。萬は謹慎を命じられます。しかし、彼の才能を惜しんだ藩の重役は松平家の修史局に採用しようとしました。ところが、これを萬が拒絶したため、同年十月に領外追放処分に処せられたのでした。

これを契機に萬は、家族とともに江戸に出て、湯島天神坂下の平田家に入りました。一時は篤胤の養子となって大和田篤道を名乗り、気吹舎塾の学頭にもなりました。ところが当時、疱瘡が流行し、篤胤の孫が亡くなり、翌文政十二年正月早々、萬の子衛門も亡くなるという不幸が重なりました。こうした中で、萬は同年三月に平田家と離縁して本姓に復し、江戸赤坂田町に住むことになりました。

新潟出身の詩人・歌人、相馬御風は、「深く篤胤の感化を被つてゐたとはいへ、到底師と同じやうに講学の一途に没入してゐることの出来るやうな冷静さは持つてゐなかつた。寧ろますます深く説く道に心を寄せれば寄せるほど、いよいよ激しく彼は時勢に対する情懣を感じないではゐられなかつた」と書いています。

藩を追放され、師の篤胤からも自立して、皇国の道をひたすら求めた萬の生活は、困窮を極めました。「貧しきを悲しむ歌並短歌」など、血の惨むような生活苦を詠じた歌が多く残されています。天保元(一八三〇)年には長女由理子が誕生したものの、まもなく病魔で亡くなり、翌天保二年正月には父が亡くなりました。

この年、ようやく館林藩から許され、故郷の土を踏むことができるようになりましたが、家督はすでに弟が嗣いでいたので、もはや館林藩士として士分に復帰する望みを断たねばなりませんでした。やむなく萬は、太田に移り住むことにしたのです。

伊東多三郎は「萬の心境は、度重なる生活苦と比例して、孤高の思ひを弥増し、益々現実の社会を否定して、古代憧憬の念を強めて行つたやうである」と書いています。それとともに、萬が死を覚悟して蹶起に至るには、篤胤との出会いによる死生観の大きな転換があったのです。萬は、篤胤と出会うまで、人生の有限性を強く意識していました。

それが、『霊能真柱』との出会いによって、劇的に変化するのです。

篤胤は同書を「この築立る柱はも、古学する徒の大倭心の鎮なり」と書き起こし、次のように続けます。

「古学を学ぶ者は、まず何よりも第一に大和心を固めなくてはならない。この固めが固くなくては、まことの道を知ることができないということは、わが師本居翁がねんごろに救えさとされたところである。この教えは、盤石の土台岩の上に突き立てた、いかめしい柱のように動くことのない教えである。ところで、その大和心を太く高く固めたく望むときには、何よりも人の死後の霊の行方、落ち着くところを知ることが第一である」(相良亨現代語訳)

宣長は、人間の死後は善悪にかかわらず、夜見(黄泉)という汚いところへ往くとし、それを悲しむしかないと説きました。しかし、篤胤は「師宣長も、ふと誤って魂の行方は黄泉の国であるといわれたが、師の魂も黄泉の国に往ってしまってはおられない」と宣長の説に反論し、さらに次のように宣長の魂の行方とはたらきについて述べたのです。

〈師の魂のましますところを篤胤はたしかに存じ上げている。しずかにゆったりと鎮まりましまして、すでに死なれたわれわれの先輩たちをその御前に侍わせ、歌を詠んだり文を書いたりしつつ、前に考えもらし、説き誤ったところがあれば、それを新たに考えなおされ、何某は道を求める心が厚いから、この点は彼にさとらせてやろうなどと話し合っておられることは、現にこの目で見るように、まったく疑いなく確かなことである〉(同前)

篤胤は黄泉往きを否定し、霊魂は幽世あるいは冥府に往くと唱えたのです。彼は、幽府はこの国土の外の別のどこかにあるのではなく、国土の内のどこにでもあると書き、また魂は墓上に鎮まるとも言っています。

松本三之介は篤胤の冥府の説が「現実の人間に安心を与え、或いは志操を堅固ならしむるに役立ったと同様、それはまた現世における人々の具体的行為に対する規範としての役割を国学に与えるものであった」と書いています。次の萬の文を読む時、彼が『霊能真柱』によって、まさに安心を得、志操を固めたことが明確になります。

〈霊能真柱に挙つらはれたる説ともよく拝読み、死て後は、世にある間にも立勝りて、奇霊なる事あることを、よく心得おきて、魂の行方を安定得ては、道の志の厚からむ人は、中々に死ぬことをば嫌らふましく悦ぶことこそあるべけれ、其は世にある間は障ることの多くて、何事も成得ざらむも死て後此体を、離れて、魂のみとなりては、其魂即神にて、奇霊なる事も為なれば、いかで神に皇に国に忠なる、功績をなさむとぞ願ふべきものにはありける、かゝれば死ぬことをば、然しも嫌らふべきことにはあらずなむ、かくて又よく考へてよ。凡て命の惜かればこそ、何事にも何事にも、女々しく怯くて、恐怖るゝ事は多けれ、既に命の惜からざることを、真に知りては、天地の間には、豈恐怖るゝことあらめや、かくてこそ雄々しく潔き大和魂の真柱は、動かず揺がず安定るものなれ〉

萬の行動を支えた「雄々しく潔き大和魂」

この萬の言葉が『霊能真柱』の次の一節を受けたものであることは、明白です。

〈すべて、人は、心を太くいかめしく、ゆるぎないものにうち固め、雄々しくまたいさぎよくとのみつとめるべきである……人の魂は、その元はすべて神から賜わったものであるから、固めれば固く、大きくすればいくらでも大きくなる物で、その心に思い定めるままになるものである。……われわれ古学する徒は、よくはげんで、その魂を大きくし、死んだ後にもこの道に功績のある神になろうとつとめなければならない〉

志ある者なら誰しも心動かされる一節です。『霊能真柱』に沈潜した萬が、篤胤と同様に「魂の行方の安定」によって「雄々しく潔き大和魂」を固めようと決意したのは当然とも思われます。彼は、大伴家持の「海行かば水漬く屍 山行かば 草むす屍 大君の辺にこそ死なめ 長閑には死なじ」の雄々しき忠心を称えましたが、前田勉氏は、この歌が、賀茂真淵(『万葉集大考』)、平田篤胤(『霊能真柱』)、大国隆正(『やまとごころ』)に連なる「武士的な国学」の系譜にとって決め手となる歌だったと指摘しています。

ここで、楠正成と弟正季の最期について、篤胤が「武士たる者は、ことにこのようにありたく思われることである」と書いていたことが注目されます。そして、萬は国学に傾倒する以前から、楠公墓前に熱い涙を流すほど楠公を慕っていました。「雄々しく潔き大和魂」としての楠公精神が、「武士的な国学派」のみならず、崎門正統派のバックボーンであったことがここに想起されます。

崎門正統派の若林強斎は、楠公の死は絶望や反抗からの急ぎではなく、「生きかわり死にかわり、朝敵を亡ぼさん」との一念によるものだと考え、「カリニモ君ヲ怨ミ奉ルノ心発ラバ、天照大神ノ御名ヲ唱フベシ」という楠公の一語こそが、わが国臣子の目当てだとの信念から書斎を「望楠」と命名しました。

勤皇運動に挺身した崎門派の梅田雲浜が「事成らずして倒るるも、その志は長く世に伝はり、勤皇の魁と相成り候へば、又是れ男子の大幸ならずや」と書いたのも、この流れにあります。

「山崎闇斎、浅見絅斎などの云つた説には、いとも勇ましく猛く雄々しき皇国魂の言も多いでござる」(『呵妄書』)と書いたのは、平田篤胤その人だったのです。

つまり、萬を支えていたのは、「武士的な国学派」と崎門正統派が共有した「雄々しき大和魂」にほかなりません。それによってこそ、萬は国学者として突出した行動力を示せたのです。伊東多三郎は、次のように萬を高く評価しています。

「……踏み行なうべき道は直截簡明であった。この道を求めるため、彼は他の学者のように古典の研究より入らず、自己反省から封建末期の学問の停滞、政治の腐敗、世相の頽廃の批判に至るまで不断の精進を行ないつつ近付いてゆき、ついにその純粋な道を見出した。求めてそれを得、そして身をもって行なったのである。国学者としてこれほどの事を為し遂げた人物は他にない。これこそ千巻の著書にも勝る業績ではなかろうか」

萬の乱以降、誰もが彼を顕彰することを憚ってきましたが、乱から六十二年を経た明治三十二年に柏崎町八坂神社境内に萬の頌徳碑が建立されました。生前萬に助けられたある乞食が、その恩に報いようと、もらった銭を貯金し、遺言とともに子にそれを譲っていたのです。やがて、その乞食の孫が「萬の建碑の資金の一部にしてほしい」、と柏崎の某氏に提供したのが、その発端でした。