謝枋得(AD1226~1289)

謝枋得

謝枋得

謝枋得、字は君直は南宋の遺臣である。信州、現在の江西省上饒の出身。礼部で行う省試は首席だったが、皇帝自ら出題する殿試でときの大臣宦官を罵ったため次席に留まったというほどの秀才である。元軍の来寇に際し、江東西地方における宣撫使(天子の旨を宣べて民衆を撫安する職)の命で礼兵部の両架閣 (官庁の帳籍文案を管掌する任)に任じられ活躍したが、政権を専らにする大臣賈似道のために官を奪われた。その後科挙の試験官となり、賈似道を厳しく批判したため今度は興国軍(湖北省陽新県)に追放された。興国軍では疊山と号して山門に籠り、狷介孤高、厳格に理を説いたので、同地の長官以下、多くの人が彼のもとを教えを乞いに尋ねた

徳祐元年に江西の招諭使、ついで信州知事に任命され、元兵の入寇を安仁で迎え撃ったが、これに敗れると賤者に身をやつし年老いた母を背負って山中に逃げ隠れた。その後、宋室は厓山の戦いで滅亡している。

シナを統一した元のフビライは、臣下の程文海を江南に派遣して宋の遺臣を求め、枋得はその筆頭であったが、彼は文海の推挙を辞退し、その後、宋の降相である留夢炎(即ち劉忠齊)も彼を推薦したが元に降るべきではないことを説いて断った。そこで魏天祐という人物は枋得を騙してまで城に召し出し降参を勧めたところ、枋得は天祐に傲岸無礼な態度で接したため、これに怒った天祐は、枋得が信州知事であるにもかかわらず母と逃れて戦死しなかったことを責めた。これに対して枋得は、趙の忠臣である公孫杵臼や龔勝の前例を以て反論している。

結局、天祐は枋得を大都に北送することになったので、彼は死の誓いを立て「雪中の松柏」云々の詩を賦して門人故友への決別の辞とした。北宋の後、絶食して自殺した。

さてそんな枋得の遺言として絧斎が掲げたのが、枋得が北送に際して死を覚悟したときに賦したとされる『初めて建寧に到りて賦する詩(初到建寧賦詩)』である。以下が本文。

雪中松柏いよいよ青青。綱常を扶植する此の行にあり。

天下久しく龔勝が潔あり。人間なんぞ独り伯夷のみ清からん。

義高くして便ち覚る生捨つるに堪ふるを。禮重くして方に知る死甚だ軽きを。

南八男兒つひに屈せず。皇天上帝眼分明。

綱常は三綱五常

龔勝は、前漢の纂臣王莽に抗して死んだ人物

南八は南霽雲で、安禄山と戦った唐の武将

上述したように枋得を推挙した劉忠齋(留夢炎)に送る書のなかで、枋得は自分が元に出仕出来ぬ理由の一つとして、徳祐帝と一緒に北送された太皇太后の御陵にい参詣する面目がなないことを挙げた。というのも、枋得は、元への降服を勧告する太后の詔書を幾度も黙殺し、そうする内に太后は崩じたからである。絧斎によれば、太后は太后なりに「君たるの仁」を尽くす考えがあってのことであったが、それでも枋得は、元に降伏しないことが「臣たるの義」であるとしてこれを拒否したのであった。本文では「君は令を行い臣は志を行う」とする古語を引いているが、これは「社稷を以て重しとし、君を軽しとす」とする文天祥の一節と符合する。徳祐帝と太皇太后が失徳であるとしたら、シナでは易姓革命が起こりそうなものであるが、文天祥にしても謝枋得にしても臣節を貫いている。何ともシナ的でない。