顔真卿(AD709~785)

顔真卿

顔真卿

顔真卿、字は清臣は、我が国では能書家として有名である。彼は唐代玄宗の治世で平原太守を務めていたとき安禄山の謀反に遭遇した。河北の諸郡が次々と禄山になびくなか、真卿は賊軍討伐の義兵を起こし勇敢に闘った。

顔真卿の従兄であり常山大夫の顔杲卿(こうけい)も真卿と同様臣節を守り禄山と闘ったが、後には禄山に捕えられた。そのとき杲卿は、禄山に向かい唐の朝恩と禄山の不忠を責め立てたため、鉤で舌を引き切って殺された。両者何れも唐朝が再興する柱石の役割を果たした。

安禄山の乱後、真卿は朝廷に復帰して御史大夫に任官した。御史大夫は官吏の邪悪を糾察弾劾する目付役である。直言を憚らぬ真卿の態度によって百官は粛然として秩序を回復したが、同時にそれは同僚たちの忌むところとなったため、真卿は幾度となく讒言誣告による左遷貶斥の憂き目に合った。

そしてついに徳宗の治世に盧杞という人物が大臣になると、彼はますます真卿の剛直を憎み、徳宗に勧めて汝州で謀反を起こした節度使、李希烈の宣慰に真卿を派遣せしめた。周囲は真卿の身辺を按じ、彼の汝州行を引き留めたが、彼は君命に逆らうわけにはいかないといってそのまま出発した。汝州に着くと、希烈は真卿を脅して降伏させようとしたが、逆に真卿は希烈の不義を責め全く臆さなかったため、ついには彼を希烈の本拠地である蔡州に移し、人を遣わせて彼を殺させた。享年76歳。蔡州への移送に際し、真卿が自らの死を悟って記した遺言が『移蔡帖』である。

顔真卿の忠義の特色は、本文中「かの忠臣誼士、何ぞ未だ信ぜられざるを以て人に望まんや」とある通り、主君による恩誼の有無に拘りなく臣節を貫くという点にある。これはシナにありがちな「士は己を知るものの為に死す」といったパーソナルな主従関係を超越した倫理感であり、ここから陶淵明の章で見たように、譬え主君から貶黜されても臣節を守る「君は君たらざるとも臣は臣たらざるべからず」という崎門のエッセンスが出てくるのである。このように時勢を超越した絶対の忠義心があったればこそ、顔真卿は孤立無援の中で敢えて安禄山に抗し得たのであって、そこには成敗利鈍の観念など微塵も無かった。しかし、豈図らんや。顔真卿の義挙は諸郡の呼応を以て燎原の火の如く燃え広がり、終には唐室中興の大業を成就せしめたのである。曰く「蓋し天下の人、豈忠義の心なからんや。・・・真卿これが倡をするなり」と。これらの故事は、千早城に立て籠もって孤軍奮闘鎌倉軍と戦った忠臣、楠正成を連想させる。一見、どんなに現実が絶望的に思われても、天下に忠義の臣は必ずいる。だから絶対に皇国中興を諦めるな、そんな絅齊の激励と受け取るべきである。

顔真卿の最後に、西郷南洲が自らの境遇を真卿に仮託して詠んだ漢詩があるので引用する。

「朝鮮に使いするの命を蒙る」。

酷吏去来秋気清    酷吏去り来たって秋気清く

鶏林城畔逐涼行    鶏林城畔涼を逐いて行く

須比蘇武歳寒操    須く比すべし蘇武歳寒の操

応擬真卿身後名    応に擬すべし真卿身後の名

欲告不言遺子訓    告げんと欲して言わず遺子の訓

雖離難忘旧朋盟    離ると雖も忘れ難し旧朋の盟

胡天紅葉凋零日    胡天紅葉凋零の日

遥拝雲房霜剣横    遥かに雲房を拝して霜剣を横たう

【解釈】 酷しい夏の暑さも過ぎ去って、秋の気配が涼やかにただようようになった。このたび朝鮮の都までは、涼しさを追いかけての旅だ。国の使者としては、いかに困難にあっても屈することのなかった漢の蘇武に、また、死をもって大義を顕した唐の顔真卿にみならわねばならない。

子どもたちに言い残しておきたいことは、なくもないが、もはや言うまい。遠く離れ去るとはいえ、旧友諸君との交誼は忘れがたい。異国の空の下、紅く色づいた木々も葉を散らす頃、傍らには白くひかる鋭利な剣を横たえて、私は遠く祖国の宮城を遥拝していることだろう。