諸葛亮(AD181?~234)

諸葛亮

諸葛亮

諸葛孔明といえば、三国志でお馴染みだが、彼の真面目は詭計を事とする軍師としてのそれにあるのではなく、興漢討賊の大義に殉じた蜀の忠臣としてのそれにある。諸葛亮、字(あざな)は孔明は、後漢が衰微し天下が分裂する中、世俗を厭い、山中に謹慎して晴耕雨読の日を送っていた。そんな折、漢室の正統な血を引く劉備玄徳が三顧の礼をもって孔明を訪い、興漢討賊の志を陳べたところ、孔明はその至誠に感動して出蘆した。

ときあたかも奸臣曹操は、献帝の命を竊(ぬす)み、曹操の子曹丕に至っては、献帝を廃して自ら魏の皇帝を僭称した。かくして高祖劉邦より四百余年続いた漢は滅んだのであるが、献帝には後嗣がなかったため、劉備は漢中王として献帝の喪主を自任、蜀の帝位に就いて(昭烈皇帝)孔明を丞相(首相)に任じた。

さてここからが問題である。孔明の没後、その爵位を継いだ孔明の子諸葛瞻(セン)は、蜀を破った魏の将軍鄧艾(トウガイ)諸葛の父祖の地を餌に誘惑してきたのを拒絶し、鄧艾の使者を斬って潔く陣中に戦死した。さらに瞻の長子である尚もまた、父子ともに国の重恩を蒙った身の上を感慨し、敵陣に攻め入って戦死したのである。このことを絅齊は講説で「忠義の家風伝わりて三代まで討死せり。日本で楠正成・正行・正儀が如し」といって称賛している。ところがこれと対照的に、劉備の後帝である劉禅は、鄧艾が成都に入るや璽綬を奉じて艾のもとに投降してしまった。これを慨嘆した皇子の諶(シン)などは劉備の廟に哭し妻子を殺してから自殺したという。

絅齊の門下であり、したがって崎門の学統に連なる若林強齊は、これらの顛末を評して「劉禅のこの様に腰の抜けた大臆病の仕方で漢家四百年の辱をかいたが、北地王()の仕方で、又高祖以来四百年の光を表すぞ」と説いたうえで、さらに我が国で「後醍醐天皇に従って高氏に降するもあり、皇子を(新田)貞に附して北国に遣わされたとき、高氏が天皇の勅じゃというて高氏に従えと偽の詔書を書いて軍兵にみせたれば、瓜生判官その他大義を知らぬ武士ども、皆高氏に降した。忠義を知りた者は皆義貞に従いて宮方へ参りた。・・・何ほど天皇でも高氏と和をなされ、その上降参せよと仰せらるれば、天下全体の賊を討つという大義を忘れたというもの。すれが勅でからが従う筈はない」と述べている。

何がいいたいのかというと、山崎闇齊以下の崎門学の特徴は易姓革命を廃し「君は君たらずとも臣は臣たらざるべからず」という節度にあった。これは承詔必謹の考えにつながる。しかし失徳の天子ないしは暗君(後醍醐帝がどうかは別として)が下した詔勅はどうなるのか。国体の尊厳を損なう詔勅も絶対ということになるのか。この辺の消息が今後の研究課題である。

後、劉備は蜀の後事を孔明に一任して崩じた。孔明はその遺嘱によって南中を平定して後顧の憂いを絶ち、しかして魏を討つために北征の途に就いた。その際、幼帝劉禅に諭告して献上したのが「出師表」であり、馬稷の違命によって魏に大敗を喫した後、再度の北征に赴いた際に献上したのが「後出師表」である。

結局孔明は志半ばにして斃れたが、彼の政治は公明正大、信賞必罰に徹し、天地の間に三綱の道義を闡明すること、「日月とその光明を同じくして可なり」というべきものがあった。