現在も続く直毘霊論争(『月刊日本』平成26年1月号)

naobi3「保守論壇八十年論争」

江戸時代後期、国学派と儒学派との間で、八十年に及ぶ激しい論争がありました。ある面で、この論争は現在も続いています。

この論争こそ、『直毘霊(なおびのみたま)』(一七七一年)の刊行によって火蓋が切られるわけですが、『直毘霊』には荻生(おぎゅう)徂徠(そらい)門下の太宰春台(だざいしゅんだい)の主張に対する反論が込められていました。

春台は享保二十(一七三五)年に刊行した『弁道書』において、第一代の神武天皇から三十代の欽明天皇の頃までは、わが国には道というものが存在せず、万事気の赴くに任せた状態だったと主張したのです。しかも春台は、神道を儒教、仏教と並べて一つの道とすることは誤りであって、もともと神道は聖人の道の中にあると説いたのでした。この言葉が宣長を強く刺激したのです。

まず、直毘霊論争の経過を概観しておきます。安永九(一七八〇)年に、徂徠門下の大内熊耳(ゆう じ)に学んだ市川鶴(かく)鳴(めい)(匡(たず)麻(ま)呂(ろ))が『末(ま)賀(が)能(の)比(ひ)連(れ)」を書き、『直毘霊』(『直毘霊』の未定稿「道云事之論(みちということのあげつらい)」)を批判します。「末賀能比連」とは、邪悪を振り払う呪力ある布という意味です。同年十一月、宣長は『葛花(くず はな)』を著し、市川に反論を試みます。「葛花」とは、「漢意(から ごころ)」という毒酒に対する妙薬のことで、「漢意の酔いから醒めよ」という宣長の挑発的なメッセージが込められています。

宣長没後の天保六(一八三五)年には垂加派の伊勢茂美が『非葛花』で、安政五(一八五八)年には水戸学の会沢正志斎(あい ざわ せい し さい)が『読直毘霊』で、それぞれ宣長の議論を批判しました。つまり、直毘霊論争は国学派宣長の『直毘霊』、『葛花』に対する儒学派による一連の批判と擁護論によって展開された論争で、「国儒論争」とも呼ばれます。もともと、『直毘霊』は春台の議論に触発された面があったのですが、宣長の議論は徂徠の着想の展開でもありました。

徂徠は『弁道』において、「先王の道は、先王の造る所なり。天地自然の道に非(あら)ざるなり。けだし、先王、聡(そう)明(めい)睿(えい)智(ち)の徳を以て、天命を受け、天下に王たり。その心は、一に、天下を安んずるを以て務めとなす。ここを以てその心力を尽くし、その知巧を極め、この道を作為して、天下後世の人をしてこれに由りてこれを行はしむ。あに天地自然にこれあらんや」と述べていました。

「道」とは自然物ではなく、人工物だと主張し、老荘思想の「天地自然の道」や「無為自然の道」、朱子の「道は天地の自然」という説を批判したわけです。

宣長は、この徂徠の主張を援用して、「聖人どもの作り構えて、定めおきつることをなも、道とはいふなる」と書いたのです。そして、宣長は「聖人の道は、たゞいたづらに、人をそしる世々の儒者どもの、さへづりぐさとぞなれりける」と「聖人の道」を批判したのでした。

これに対して、朱子学では、「道」は天地自然にあると考えました。宣長の主張に挑んだ会沢正志斎もまた、道を朱子学的「天地自然の道」と捉えていました。

彼は、『読直毘霊』で「道は天地の道なり。天地あれば、人あり。人あれば、君臣、父子、夫婦、兄弟、朋友あり。君臣の道を義と云、父子の道を親と云。夫婦には別あり、長幼には序あり、朋友には信あること天地自然に備りたる大道なり」と書いています。

では、宣長はわが国の道(「神の道」)をどう考えていたのでしょうか。『直毘霊』では、「天地のおのづからなる道にもあらず、人の作れる道にもあらず、此道はしも、可畏(かしこ)きや高御産巣日神(たかみむすびのかみ)の御(み)霊(たま)によりて、神祖伊邪那岐(かむろぎいざなぎの)大神(おお かみ)伊邪那美大神(いざなみのおおかみ)の始めたまひて……天照大御神の受たまひたもちたまひ、伝へ賜ふ道なり。故是以(かれここをもて)神の道とは申すぞかし」と書いています。
『初山踏(うい やま ぶみ)』(一七九八年)においては、そもそも、この道は天照大御神の道であり、天皇の天下をしろしめす道、四海万国に行きわたる「まことの道」であると説きました。

会沢正志斎が追求した東アジアの普遍的価値

宣長に対する正志斎の主張は、『読直毘霊』にある、次の一節に集約されています。
「右直毘霊に論ずる所、皇統の正きこと、万国に勝れたりと云るは、極めて卓見にして正論なれども、聖人の道を誹譏(ひ き)して、別に私見を以て、一個の道を造立せしは惜むべきこと也」
正志斎は「天地自然」に備わった道は、「四海万国ともに教えとすべき大道」であると主張したのです。『読葛花』では、「皇神の道と聖人の道とを二つにする」ことは「僻見」であると説いています。

同時に、正志斎は聖人の道の普遍性を認めた上で、それを体現したわが国の優位性をも説いたのでした。

「国に正気と偏気との別ありて、正気の国は五倫明に、偏気の国は明ならす。神州は太陽の出る方に向ひ、正気の発する所なれば、君臣父子の大倫明なること、万国に比類なし」、「就中君臣の義、父子の親に至ては、神州の正きに及ぶ者なし。是漢土と争ふにも及ばず」

安蘇谷(あそや)正彦氏は、直毘霊論争を「シナ文明を基軸とした普遍主義の立場を標榜する儒学と、日本文明のアイデンティティを強調する国学との論争」と位置づけました。同様に田尻祐一郎氏もまた次のように語っています。

〈ものすごく荒っぽくまとめてしまえば、儒学の立場というのは、この国儒論争で、東アジアのある普遍的な価値観、これは実践のモラルで言えば「忠」とか「孝」ということですが、東アジアの普遍的な価値観が、中国や朝鮮よりも、日本に於いて純粋に、あるいは根本的に歴史貫通的に明らかになっている。東アジアの普遍的な価値観を体現しているのが日本だというのが、儒学の立場だと思います。この論争の中での儒学の立場です。それに対して国学の場合は、東アジアの普遍的な価値観と言われるものは、実は偽善的なもので、本来の人間的な普遍ではないのだ。それに対して日本には、そうした偽善的価値観を超えた、より本来的な価値が元々在ったのだ。従って日本が貴いのである。ごく荒っぽく言えば、こういうことが言えると思います〉

わが国の「まことの道」の優位を説く上で、宣長が用いたのが妙理です。『直毘霊』では、「大御国の説は神代より伝へ来しままにしていささかも人のさかしらを加へざる故にうはべはただ浅々と聞ゆれども実にはそこひもなく人の智の得(え)測(はか)度(ら)ぬ深き妙(たへ)なる理のこもれるを、其の意をえ知らぬは、かの漢国書の垣内にまよひ居る故なり」と書いてます。

有限な人間の知識によって測り知ることのできる「常理」に対して、妙理は理性では測り知ることのできないものです。これは、ものごとの本質は人には認識することが不可能であるという「不可知論」であり、師の真淵もまた『国意考』において、「世の中のことは、さる理りめきたることのみにては、立ぬ物と見ゆる」と書いていました。

宣長の妙理を保障していたのは、『古事記』が伝える古伝の事実です。しかし、正志斎は、宣長が聖人の時代に書かれた「六経」(『易経』『書経』『詩経』『礼記』『楽経』『春秋』)を偽りとする一方で、『古事記』のみを信用する態度に疑問を呈していました。

割れた大化の改新の評価

宣長と正志斎の激突は、古代からのわが国の歴史に対する認識にも深く絡んでいました。宣長は古代においても、天照大神の御心によって大神の子孫である天皇が日本を統治し平安に治まっていたと主張しました。彼は『葛花』においては、異国の聖人の道がわが国に入ってくる前には、特に礼儀忠孝等の道は完全で、世の中は非常に良く治まっていたと説いています。

これに対して正志斎は、どこの国の風俗にも善と悪とがあるのだから、歴朝の聖主も、聖人の道の賛(たす)けによって治められていたことを知らずに、聖人の道なしに善く治まったと言うのは、記紀を読んでいないのではないか、と挑発的な言葉を発しています。

正志斎は歴朝の天皇が聖人の道を羽翼となしてきたと認識していたのです。正志斎より前に、垂加派の伊勢茂美は『非葛花』において、応神天皇の時代の五世紀前半に百済から来た王仁が『論語』をもたらし、皇太子・菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)の師となり、やがてその兄・大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)が仁徳天皇として仁政を敷いた事実を紹介し、「能く国の治まりし㕝(こと)は聖教の徳たる㕝を知らずして何ぞ濫りにかかる虚誕(いつ はり)の妄言をなすや」と宣長の主張を批判しました。

一方、宣長は、難波の長柄宮(孝徳天皇)、淡海の大津宮(天智天皇)の時代に至って、わが国の制度がみな漢風になり、「古の御てぶり」は、ただ神事にのみ用いられるようになってしまったと説きました。大化の改新もまた、漢の制の模倣であると宣長は主張したのです。

これに対して、正志斎はいずれの国も上古は純朴で、時代を経るにしたがって、「質」より「文」に移っていくものであると説き、次のような歴史認識を示しました。

わが国でも時代を経る中で、天皇、諸王、臣(おみ)、連(むらじ)、伴造(とものみやつこ)などに至るまで、各品(しな)部(べ)を分けて、その土地人民に名をつけ、名を後に遺すということが行われて、地と民とを私有とし、互いに略奪して争いがやまないような事態に陥った。

正志斎は、大化の改新によってこうした宿弊が革められ、郡県の制度が改められ、王土、王臣とされ、紀綱振粛され、朝廷の尊厳が回復されたと説いたのです。

正志斎は大化の改新を誹謗することは、「祖宗を軽蔑し、朝政に違反す、其罪違勅に等し。乱臣賊子の所為」と激しい言葉で、宣長を批判しています。

中国に「聖人の道」の実践者はいなかったのか

宣長は、聖人の道というのは、治まり難い国である中国を、強いて治めようとして作ったものだと主張しました。

これに対して正志斎は、治り難い国というのは、宣長の推測による主張であり、賢君がいれば善く治り、年月が経てば弊害が生じてくるのは、どこの国でも同じことだと反論します。

さらに、宣長は中国の歴史を振り返り、礼儀や忠孝などを徳目的に教えても、徳にかなった行為は見られなかったと説き、次のように続けました。

「異(あだ)し国は、天照大御神の御国にあらざるが故に、定まれる主(きみ)なくして、狹蠅(さばへ)なす神(かみ)所(ところ)を得て、荒ぶるによりて、人(ひとの)心(こころ)あしく、慣(なら)はし乱(みだ)りがはしくして、国をし取つれば、賎しき奴(やっこ)も、忽ちに君ともなれば、上とある人は、下なる人に奪はれじと構へ、下なるは、上の隙(ひま)を窺ひて、奪はむと謀りて、互(かたみ)に仇(あた)みつゝ、古より国治まりがたくなもありける」

正志斎は、これにも真っ向から反論します。

「賎き奴も忽に君となること、万国にある事なれども、漢土にも後世のことにて、古は伏義(ふく ぎ)、神農(じん のう)、黄帝(こう てい)、堯舜(ぎょう しゅん)等、何れも帝王の胤にして、代る代る天下を有てるなれば、一概に賎奴と云は、古今に附き也」

宣長は、歴史を見れば、聖人の道の通りに実行した人は中国では一人もいないとも主張しています。これに対して正志斎は、道の通りに実行した人がいたことは明白だとし、諸葛孔明、張巡、許遠といった人物が幾百千人いたことを知らないのかと反論しました。

正志斎が挙げた張巡、許遠はともに唐の時代の忠臣です。ここで想起されるのが、浅見絅斎(けい さい)の『靖献遺言(せいけんいげん)』です。絅斎は、諸葛孔明に一章を割き、また張巡、許遠のことを顔真卿(がん しん けい)の一章において称賛しているのです。

易姓革命の否定は、山崎闇斎─浅見絅斎─若林強斎(きょう さい)と続く、崎門学正統派が強調してきたところです。宣長もそれを当然承知していたはずです。ところが、宣長は聖人の道を易姓革命と結びつけることによって、聖人の道自体を否定しようとしたかに見えます。

相互補完的な国学と水戸学

以上のように、国学派と水戸学派の歴史認識には大きな隔たりがありましたが、そもそも「教化」をどう考えるかで、両者は決定的に対立していたのです。

宣長は、強いて神の道を行おうとすると、かえって「神の御所為」に背くことになると主張していました。『玉勝間』においては、中国の古書はひたすら教誡だけをうるさく言うが、人は教えによって善くなるものではないと書いています。これに対して、正志斎は次のように批判しました。

「仁政の要を知らざれば、人の上たること能はず、臣として君徳を輔佐すること能はず、義を知らざれば、元弘、延元の世の如きにも、去就を誤る類のものあり。礼を知らざれば君に事(つか)へ、人に交るに敬簡の宜を得ず、譲を教へざれば争心消せず、孝悌、忠信を教へざれば、父母に事へ、人と交て不情の事多し。多人の中には自然の善人もあれども、衆人は一様ならず、教は衆人を善に導く為に施す也」

水野雄司氏は、「皇統の正しくましますことも、其実は天祖伝位の御時よりして、君臣父子の大倫明なりし故なることを論ぜざるは、遺憾と云べし」という正志斎の宣長批判は、記紀から読み取れる「皇統の正しくましますこと」という史実(「事」)から、「君臣父子の大倫」という「教」を論じない、読み取らないことへの批判だと書いています。

この国学と水戸学の対立は、日本精神発揚において両者が果たした役割の違いとも絡みます。高須芳次郎は、皇道精紳に基本を置いて、純日本文化を築きあげる事に主力を置いた国学運動は、(一)古代理想主義の宣揚、(二)古代文学・特に万葉鼓吹、(三)復古神道の提唱、(四)古代文献の開拓、(五)史学上の展開、(六)国文学の新研究、(七)神社制度の研究、(八)排儒・排仏・排俗神逍となって、その特色を発揮したのに対して、皇道発揚に主力を注いだ水戸学は、(一)『大日本史』による大義名分論の力説、(二)尊皇攘夷主義の高調、(三)神儒調和、(四)宗教界の廓清(かく せい)、(五)政治・経済上の改革、(六)儒教の闡明、(七)弘道館創設による国民道徳の樹立、(八)排仏・排耶・排俗神道などとなって、その本領を発揮したと整理しています。その上で、次のように両者の補完関係を捉えました。

「水戸学は、国学と提携すべきもので、衝突すべきものではない。何れも、日本精神運動で、その全面的な拡大・強化を為すには、文学・宗教のみならす、史学・教育・政治経済方面にも、日本精神を滲透しなければならない。この意味からすれば、国学の手の伸びないところは、水戸学において補ひ、水戸学の手の及ばぬところは、国学において補つてゐる」

本居宣長の功罪

ところで、『玉くしげ』(一七八七年)において、宣長は「神は人にて、幽(かみ)事(ごと)は、人のはたらくが如く、世の中の人は人形にて、顕(あらわに)事(ごと)は、其人形の首手足など有て、はたらくが如し」と書きました。

この宣長の言葉について、野口武彦氏は「この絶対受容性は、神意に対する絶対恭順につながり、ひいてはまた現状容認の態度を生み出すことは理の当然なのである」と指摘しています。
一方、宣長には政治を改めようとする唐土の風俗を否定しようとする考えがありました。例えば、『秘本玉くしげ』で彼は「惣じて古より唐土の風俗として何事によらず旧きに依ることをばたつとばず、ただ己が私智を以て考えて万の事を改めて功を立てんとするならはし也」と書き、少々の弊害があっても改革を避け、旧来の政治の仕方を守り続けるのが良いと説いていました。

こうした考え方が、國體の尊厳を追求しつつも、江戸幕府の現状をただ追認した宣長の言説の背景にあったと推測されますが、彼は儒教的道徳主義を排するあまり、現実政治に対する批判力を喪失してしまったのかもしれません。事実、宣長は徳川幕府を礼讃していました。

しかも彼がこのように書いたのは、明和四(一七六七)年八月に、山県大弐(やまがただいに)が幕府に警戒されて死刑に処されてまもなくのことです。宣長の言動について、里見岸雄博士は次のように厳しく批判しています。

〈宣長の「古事記」研究、神代宣揚は、結局、単なる精神的、観念的、宗教的闡明(せん めい)を出でざるものであつて、彼のいはゆるまことの道とか敷島の道とか、古の道とかといふものは、全く現実を遊離した、いはゞ精神修養的観念に過ぎないのであると曰はざるを得ないのである…およそ我国のまことの道とは相容れざる幕府政治を是認するのみならず、その国学の知識を逆用して幕府政治が神意に基くものであるかの如く説き、将軍を殆んど神命を行ふ恰も天命の人なるかの如く礼讃した点で、実に「古事記伝」その他の貢献とにらみ合はせる時、功罪相半ばする者と曰はざるを得ぬ〉

宣長の言動は、堂々たる國體論を説きつつ、國體に適わぬ現実政治を肯定する今の保守論者とも、どこか通ずるような気がします。

さて、正志斎と宣長は激しくぶつかり合いましたが、その後国学の側にも変化が生まれました。例えば、宣長の門人であり、備中吉備津神社神官であった藤井高尚は「教え」を解き明かすことに努力しましたし、平田派国学者も神の道の規範化を進めました。それは、水戸学などの皇道発揚の力に触発されたと見ることも可能です。一方、水戸学派の中からも、吉田活堂のように国学に接近していく者が現れました。

しかし、宣長と正志斎の対立に象徴される国学派と儒学派の論争はその後も続き、いまなお続いていると言っても過言ではありません。

正志斎は『新論』の中で「未だ嘗て回回(イスラム=引用者)・羅馬(ローマ)の法に沾染(てん せん)せざるものは、すなはち神州の外、独り満清あるのみ。ここを以て神州と唇歯(しん し)を相なすものは清なり」と書き、西欧列強のアジア進出に対する日中提携を説いていました。この正志斎の議論は、その後のアジア連帯による興亜論の原型の一つとなります。

やがて、満洲国建国後の昭和八年に、千葉命吉は王道思想に基づく日満提携を批判しましたが、その論拠は宣長の儒学批判の論理でした。これに対して、王道の普遍性に基づいて、あくまで対等なアジア連帯を模索したのが石原莞爾らの東亜連盟です。東亜連盟協会『東亜連盟建設綱領』には、次のように書かれています。

「……王道そのものは、世界に普遍妥当するものであるから、世界のいづこに於ても、又世界のいづれの民族によつても考へられ得るものであり、又実行し得られるものである。……王道はかく世界の到る処で多少にかかはらず考へられ又実行もせられたけれども、それが永続的生命を保持し得なかつたのは……軌範を支持するところの力が不十分であつたために外ならない。此の場合の力とは何であるか、曰く國體である。國體が薄弱であつた為めに、王道たる根本的軌範を事実上支持し得なかつたのである。……従つて、易姓革命といふ事は王道そのものの問題ではなく実に國體事実の問題なのである」

このように、王道と易姓革命を峻別し、王道の普遍性を主張したのです。これに対して、宣長の信奉者たちは、王道に対する皇道の優位を説き、東亜連盟のような思想を激しく攻撃しました。そこには、対等の関係よりも、上下の関係への志向が存在したように見えます。
同時に、中国に関する宣長的な言説は、その後の日中異質論を用意し、やがてわが国の西洋近代の価値観受容と相まって、中国に対する排外意識や侮蔑意識として展開されたことは否めません。

『古事記伝』に象徴されるように、やまとことばや日本固有の文化を探求した宣長の功績は多大ですが、彼の漢意批判には行き過ぎた部分があったように思われます。いま改めて直毘霊論争を振り返り、東アジアの普遍的価値観を模索した正志斎の論理を再考すべきだと思います。

次回から蒲生君平(がもうくんぺい)の『山陵志(さんりょうし)』に移ります。